だ――自分に得したことの無い人だ」と三吉も言ってみた。
 その日は宗蔵も珍しく機嫌よく、身体の不自由を忘れて、嫂の物語に聞恍《ききほ》れていた。実が刑余の人であるにも関《かかわ》らず、こういう昔の話が出ると、弟達は兄に対して特別な尊敬の心を持った。
 主人の実は屋外《そと》から帰って来た。続いて稲垣も入って来た。夫の声が格子戸のところで聞えたので、急に稲垣の細君は勝手の方へ隠れて、やがて娘のことを案じ顔に裏口からコソコソ出て行った。
「家内は御宅へ参りませんでしたか」と稲垣は縁側から顔を出して尋ねた。
「ええ、今し方まで……」とお倉は笑いながら答える。
「オイ、稲垣君、君は細君を掃出《はきだ》したなんて――今、細君が愁訴《いいつけ》に来たぜ」と宗蔵も心やすだてに。
「いえ――ナニ――」と稲垣は苦笑《にがわらい》して、正直な、気の短かそうな調子で、「少しばかり衝突してネ……彼女《あいつ》は口惜《くやし》紛《まぎ》れに笄《こうがい》を折ちまやがった……馬鹿な……何処の家にもよくあるやつだが……」
「子供が有るんで持ったものですよ」とお倉は慰め顔に言って、寂しそうな微笑《えみ》を見せた。


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