れから僕の持ってる書籍《ほん》で、君の参考に成るだろうと思うようなものも、可成《かなり》有るよ。ああいうものはいずれ君の方へ遣ろう。君に見て貰おう」
 部屋の前は、山茶花《さざんか》などの植えてある狭い庭で、明けても暮れても宗蔵の眺める世界はこれより外は無かった。以前には稲垣あたりへよく話しに出掛けたものだが、それすら煩《うる》さく思うように成った。彼の許《ところ》へと言って別に訪ねて来る人も無かった。世間との交りは全く絶え果てた形である。
 町の響が聞える……
 宗蔵は聞入って、「三吉さん、君だからこんな話をするんだが、僕だって、君、そう皆なから厄介者に思われて、ここの家に居たく無い。ことしの夏は僕もつくづく考えた……三四日ばかり何物《なんに》も食わずにいてみたことも有った……しかし人間は妙なものさね、死のうと思ったッて時が来なければ容易に死ねる訳のものでは無いね……」
 こんなことを、さもさも尋常《あたりまえ》の話のように宗蔵が言出した。まるで茶でも飲み飯でも食うと同じように。
「どうかすると、『宗さんは御変りも御座いませんか』なんて、いかにも親切らしく言ってくれる人がある。あれは
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