い》を遣るものは、僅かにこの和歌である。読み聞かせているうちに、痛憤とも、悔悟とも、冷笑とも、名の付けようの無い光を帯びた彼の眼から――ワンと口を開いたような大きな眼から、絶間《とめど》もなく涙が流れて来た。
「つくづく君の留守に考えたよ」と宗蔵は手拭《てぬぐい》を取出して、汗でも出たように顔中|拭廻《ふきまわ》した。「今年の夏ほど僕も種々《いろいろ》なことを思ったことはないよ。アア」
「そんなに苦しかったんですかネ」と三吉も宗蔵の顔を眺《なが》めた。「木曾に居ても随分暑い日は有りました――東京から見ると朝晩は大変な相違《ちがい》でしたが」
「いや、暑いにも何にも。加《おまけ》に風通しは悪いと来てる。僕なぞはあの窓のところに横に成ってサ、こう熟《じっ》と身体を動かさずにいたこともあった。そうすると、君、阿爺《おやじ》のことが胸に浮んで来る……母親《おっか》さんのことも出て来る……」
冷い壁の下の方へ寄せて、隅《すみ》のところに小窓が切ってある。その小窓の側が宗蔵の病躯《びょうく》を横える場処である。
宗蔵は言葉を継いだ。「阿爺と言えば、阿爺の書いた物を大分君の留守に調べたよ。そ
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