一つ見て来ようと思いまして――今日は工場へ行く、銀行を廻るネ、大多忙《おおいそがし》」
「どうも毎日御苦労様で御座います」とお倉が言う。
「いえ、姉さんの前ですけれど」と稲垣は元気よく、「これで車が一つガタリと動いて御覧なさい、それこそ大変な話ですぜ――万や二万の話じゃ有りませんぜ。私なぞは、どうお金を使用《つか》おうかと思って、今からそれを心配してる」
「真実《ほんと》に稲垣さんは御話がウマイから」とお倉は笑った。
「まあ、君なぞはそんな夢を見ていたまえ」と宗蔵も笑って、「時に、稲垣君、この頃はエライ芝居を打ったネ」
「え……八王子の……あの話は最早《もう》しッこなし」と稲垣は手を振る。
「実は、今、あの話を三吉さんにしましたところですよ」とお倉は力を入れて、「何卒《どうぞ》まあ事業《しごと》の方も好い具合にまいりますと……」
「姉さん、そんな御心配は……決して……実兄さんという人がちゃんと付いてます」
この稲垣の調子は、何処《どこ》までも実に信頼しているように聞えた。それにお倉は稍々《やや》力を得た。
娘のお俊は奥座敷の方へ行って独《ひと》りで何かしていたが、その時母の傍へ来た
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