蔵や三吉が迎えに来ていて、久し振で娑婆《しゃば》の空気を呼吸した時の心地《こころもち》は、未だ忘れられずにある。日光の渇《かわき》……楽しい朝露……思わず嬉しさのあまりに、白い足袋跣足《たびはだし》で草の中を飛び廻った。三吉がくれた巻煙草《まきたばこ》も一息に吸い尽した。千円くれると言ったら、誰かそれでも暗い処へ一日来る気は有るか、この評定《ひょうじょう》が囚人の間で始まった時、一人として御免を蒙《こうむ》ると答えない者はなかった。その娑婆で、彼は新しい事業を経営しつつあるのである。
 直樹の父親もまた同郷から出て来た事業家であった。この人と実兄弟とは、長い間、親戚のように往《い》ったり来たりした。直樹の父親の旦那《だんな》は、伝馬町《てんまちょう》の「大将」と言って、紺暖簾《こんのれん》の影で采配《さいはい》を振るような人であったが、その「大将」が自然と実の旦那でもあった。旦那は、実の開けた穴を埋めさせようとして、更に大きく注込《つぎこ》んでいた。
 格子戸の填《はま》った、玄関のところに小泉商店とした看板の掛けてある家の奥で、実は狭い庭の盆栽に水をくれた。以前の失敗に懲りて、いかな
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