崖下《がけした》には乗合馬車が待っていた。車の中には二三の客もあった。この車はお六|櫛《ぐし》を売る宿《しゅく》あたりまでしか乗せないので、遠く行こうとする旅人は其処《そこ》で一つ山を越えて、更に他の車へ乗替えなければ成らなかった。
「直樹さんと来た時は沓掛《くつかけ》から歩きましたが、途中で虻《あぶ》に付かれて困りましたッけ」
「ええ、蠅《はえ》だの、蚋《ぶよ》だの……そういうものは木曾路《きそじ》の名物です。産馬地《うまどこ》の故《せい》でしょうね」
 こんな言葉を、三吉と正太とは車の上と下とで取換《とりかわ》した。
 ノンキな田舎のことで、馬車は容易に出なかった。三吉は車の周囲《まわり》に立って見送っている達雄や嘉助や若い手代達にも話しかける時はあった。待っても待っても他に乗合客が見えそうもないので、馬丁《べっとう》はちょっと口笛を吹いて、それから手綱《たづな》を執った。車は崖について、朝日の映《あた》った道路を滑《すべ》り始めた。二月ばかり一緒にいた人達の顔は次第に三吉から遠く成った。

        三

 弟の三吉が帰るという報知《しらせ》を、実は東京の住居《すまい》の
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