、お前は知るまいが」とお種は久し振で弟と一緒に成ったことを、下婢《おんな》にまで話さずにはいられなかった。「彼《あれ》が修業に出た時分は、旦那さんも私もやはり東京に居た頃で、丁度一年ばかり一緒に暮したが……あの頃は、お前、まだ彼が鼻洟《はな》を垂らしていたよ。どうだい、それがあんな男に成って訪ねて来た――えらいもんじゃないか」
 お春は団扇《うちわ》で蠅を追いながら、皆なの顔を見比べて、娘らしく笑った。
 旧《むかし》からの習慣として、あだかも茶席へでも行ったように、主人から奉公人まで自分々々の膳の上の仕末をした。食べ終ったものから順に茶碗《ちゃわん》や箸《はし》を拭いて、布巾《ふきん》をその上に掩《かぶ》せて、それから席を離れた。


 この橋本の家は街道に近い町はずれの岡の上にあった。昼飯《ひる》の後、中学生の直樹は谷の向側にある親戚を訪ねようとして、勾配《こうばい》の急な崖《がけ》について、折れ曲った石段を降りて行った。
 三吉は姉のお種に連れられて、めずらしそうに家の内部《なか》を見て廻った。
「三吉、ここへ来て見よや。これは私がお嫁に来る時に出来た部屋だ」
 こう言ってお種が
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