てみた。
「ええ――ずっと河の岸を廻って来ました」と直樹は答える。
 その時、正太は床の間にある花瓶《かびん》を持出して、直樹が持って来た百合だの撫子《なでしこ》だのの花で机の上を飾った。
「兄さん、山脇《やまわき》の姉さんがチト御遊びに被入《いら》っしゃいッて――真実《ほんとう》に兄さんは遠慮深い人だって」
 こう直樹が自分の親戚からの言伝《ことづて》を三吉に告げた。三吉はあまり町の人を訪問する気が無かった。
 活気のある鈴の音が谷底の方で起った。急に正太は輝くような眼付をして、その音のする方を見た。
「ア――御岳《おんたけ》参りが着いたとみえるナ」
 と正太は独語《ひとりごと》のように言った。高山の頂を極《きわ》めようとする人達が、威勢よく腰の鈴をチリンチリンチリンチリン言わせて、宿屋に着くことを楽みにして来る様子は、活気が外部《そと》からこの谷間《たにあい》へ流れ込むように聞える。正太は聞耳を立てた。その音こそ彼が聞こうと思うものである。彼は縁側にまで出て聞いた。


 祭の日は橋本でも一同仕事を休んだ。薬の看板を掛け、防火用の黒い異様な大団扇《おおうちわ》を具《そな》え付けてあ
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