……あの二階から海の音なぞも聞えましたね」と正太は若々しい眼付をして言った。
「仙台は好かったよ。葡萄|畠《ばたけ》はある、梨畠はある……読みたいと思う書籍《ほん》は何程《いくら》でも借りて来られる……彼処《あすこ》へ行って僕も夜が明けたような気がしたサ……あれまでというものは、君、死んでいたようなものだったからね」と言って、三吉は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いて、「考えてみると、僕のような人間がよく今まで生きて来たようなものだ」
 正太は叔父の顔を眺めた。
 三吉は言葉を継いで、「彼処へ着いた晩から、僕は最早《もう》別の人だった。種々な物が活《い》きて見えて来た。書く気も起った……」
「あの時叔父さんの書いたものは、吾家《うち》に蔵《しま》ってあります」
「しかし正太さん、お互にこれからですネ。僕なぞも未だ若いんですから、これから一つ歩き出してみようと思いますよ……」
 こんな話をしているところへ直樹が入って来た。直樹は中学に入ったばかりの青年で、折取った野の花を提げて、草臥《くたぶ》れたような顔付をしながら屋外《そと》から帰って来た。
「直樹さん、何処《どちら》へ?」と三吉が聞い
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