種は鏡の前に坐りながら言った。「私は花が好きだで、今年も丹精して造りましたに見て下さい――夏菊がよく咲きましたでしょう」
三吉は庭に出て、大きな石と石の間を歩いたが、不図《ふと》姉の後に立つ女髪結を見つけて不思議そうに眺めていた。髪結は種々な手真似《てまね》をしてお種に見せた。お種は笑いながら、庭に居る弟の方を見て、「この髪結さんは手真似で何でも話す。今東京から御客さんが来たそうだが、と言って私に話して聞かせるところだ――唖《おし》だが、悧好《りこう》なものだぞい」こう言い聞かせた。
深い屋根の下にばかり日を送っているお種は、この唖の髪結を通して、女でなければ穿鑿《せんさく》して来ないような町の出来事を知り得るのである。髪結は又、人の気の付かないことまで見て来て、それを不自由な手真似で表わして見せる。その日も、親指を出したり、小指を出したり、終《しまい》に額のところへ角を生《はや》す真似をしたりして、世間話を伝えながら笑った。
日暮に近い頃から、達雄、三吉の二人は涼しい風の来る縁先へ煙草盆を持出した。大番頭の嘉助も談話《はなし》の仲間に加わった。そこへお仙やお春が台所の方から膳《
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