かせて下さい」と言出したに似合わず、それ程避けたい生活を送っている人とも見えなかった。三吉は自分の部屋へ行った。机の上に紙を展《ひろ》げた。
 曾根――旅舎《やどや》の二階の壁のところに立って、花束を嗅いで見せた曾根の蒼《あお》ざめた頬は、未だ三吉の眼にあった。「吾儕《われわれ》は友達ではないか――どこまでも友達ではないか――互に多くの物に失望して来た仲間同志ではないか」この思想《かんがえ》は、三吉に取って、見失うことの出来ないものであった。
 ここから三吉は曾根へ宛てて最後の別離《わかれ》の手紙を書いた。「――あるいは、これを好しとみ給うの日もあるべきかと存じ候」と書いた。
 この長く御無沙汰するという手紙を、三吉はお雪を呼んで見せた。それから、彼はすこし改まったような、決心の籠《こも》った調子で、こう言出した。
「お断り申して置きますが、僕の家は解散して了いますから」
「ええ……どうでも貴方の御好きなように……私は生家《うち》へは帰りませんから」
 とお雪は恨めしそうに答えた。
 何故夫が曾根への手紙を見せて、同時に家を解散すると言出したかは、彼女によく汲取《くみと》れなかった。で
前へ 次へ
全293ページ中172ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング