「お仙、兄さんにも、御茶が入りましたからッて、そう言っていらッしゃい」
 こうお種は娘に言付けて、表座敷の方に居る正太を呼びにやった。
 正太と三吉とは、年齢《とし》が三つしか違わない。背は正太の方が隆《たか》い。そこへ来て三吉の傍に坐ると、叔父|甥《おい》というよりか兄弟のように見える。
 正太が入って来ると同時に、急に達雄は厳格に成った。そして、黙って了《しま》った。
 正太もあまり口数を利かないで、何となく不満な、焦々《いらいら》した、とはいえ若々しい眼付をしながら、周囲《あたり》を眺め廻した。
 古い床の間の壁には、先祖の書いた物が幅広な軸に成って掛っている。それは竹翁《ちくおう》と言って、橋本の薬を創《はじ》めた先祖で、毎年の忌日には必ず好物の栗飯を供え祭るほど大切な人に思われている。その竹翁の精神が、何時《いつ》までも書いた筆に遺《のこ》って、こうして子孫に臨んでいるかのようにも見える。
 この室内の空気は若い正太に何の興味をも起させなかった。彼の眼には、すべてが窮屈で、陰気で、物憂《ものう》いほど単調であった。彼は親の側に静止《じっと》していられないという風で、母
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