した。この老人は、直樹の叔父にあたる非常な神経家で、潔癖が嵩《こう》じて一種の痼疾《こしつ》のように成っていたが、平素《ふだん》癇《かん》の起らない時は口の利《き》きようなども至極丁寧にする人である。
 老人は三吉に向って、よく直樹を東京から連れて来てくれたと言って、先《ま》ずその礼を述べた。
「三吉」と姉は引取って、「この沢田さんは、やはりお前さんの父親《おとっ》さんのように、国学や神道の御話が好きで……父親さんが生きてる時分には、よく沢田さんの御宅へ伺っては、歌なぞを咏《よ》んだものだぞや」
 こうお種が言出したので、老人も思出したように、
「ええ……左様《さよう》だ……貴方がたの父親さんは、こう大きな懐《ふところ》をして、一ぱい書籍《ほん》を捩込《ねじこ》んでは歩かっせる人で……」
 思わず三吉は、この姉の家で、父の旧友の一人に逢《あ》った。背の低い、瘠《やせ》ぎすな、武士らしい威厳を帯びた、憂鬱と老年とで震えているような人を見た。三吉も狂死した父のことを考える年頃である。


 主人の達雄は高い心の調子でいる時であった。中の間にある古い柱の下が日々の業務を執るところで、番頭や手
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