た。「こんな下駄を穿《は》かして、式に連れて行かれるものか。これは、お前、雛妓《おしゃく》なぞの穿くような下駄だ」
「だって、『母親《おっか》さん、これが好い、これが好い』ッて、あの娘《こ》が聞かないんですもの」とお倉が言う。
「親が附いて行って……こんなものはダチカン……鈴の音のしないような、塗って無いのが好い。取替えて来い」と実は叱るように言った。
「私も、そうも思ったけれど」とお倉は苦笑《にがわらい》しながら。
「母親さん、取替えて来ましょうよ」と娘は母の袂《たもと》を引いた。
 生め、殖《ふや》せ、小泉の家と共に栄えよ――この喜悦《よろこび》は実が胸に満ち溢れた。彼は時の経つのを待兼ねた。遠方から着いた名倉の母、兄などは、先ず旅舎《やどや》で待つということで、実と稲垣とは約束の刻限に其方へ向けて家を出た。
 丁度、お倉の実の姉のお杉も、手伝いながら来て、掛っている頃であった。このお杉の他に、稲垣の細君もやって来て、二人してお俊の為に晴の衣裳を着せるやら、帯を〆《しめ》させるやらした。直樹の老祖母《おばあ》さんも紋付を着てやって来た。目出度《めでたい》、目出度、という挨拶は其処《そこ》にも此処《ここ》にも取換《とりかわ》された。田舎《いなか》の方から引返して来た三吉は、この人達と一緒に、料理屋を指して出掛けた。日暮に近かった。


 一同出て行った後、家に残った人達は散乱《ちらか》った物を片付けるやら、ざッと掃除をするやらした。その晩は平常《いつも》より洋燈《ランプ》の数を多く点《つ》けて、薄暗い玄関までも明るくした。急に家の内は改まったように成った。
「今晩は」
 と稲垣の娘も入って来て、母親と一緒に成った。お杉、お倉なども長火鉢の周囲《まわり》に集った。
 稲垣の細君は起《た》って行って、次の部屋に掛けてある柱時計を眺《なが》めて、それから復《ま》た娘の側へ戻った。
「最早それでも皆さんは料理屋の方へ被入《いら》しったでしょうか」と稲垣の細君が言ってみた。
「どうして、おばさん、未だナカナカですよ」とお倉は笑って、「名倉さんの旅舎《やどや》で御酒が出るんですもの。散々《さんざん》彼処《あすこ》で祝って、それからでなければ――」
「丁度今頃は御酒の最中だ」とお杉も言った。
「名倉さんの方では母親《おっか》さんと兄さんと附いていらしッたんですッてね。必《きっ》とまた吾家《うち》の阿爺《おやじ》が喋舌《しゃべ》っていましょうよ。遠方から来た御客様をつかまえて、ああだとか、こうだとかッて――しかし、母親さんも御大抵じゃ有りませんね、御嫁さんの仕度から何から一人で御世話を成さるんじゃ……」
 こう稲垣の細君が言うと、娘は母に倚凭《よりかか》りながら、結婚ということを想像してみるような眼付をしていた。
 部屋々々の洋燈は静かに燃《とぼ》った。お倉は一つの洋燈の向うに見える丸蓋《まるがさ》の置洋燈の灯を眺めて、
「私なぞも小泉へ嫁《かたづ》いて来る時は――真実《ほんと》に、まあ、昔話のように成って了《しま》った――最早親の家にも別れるのかと思って、ちょっと敷居を跨《また》ぐと……貴方《あなた》、涙がボロボロと零《こぼ》れて……」
 稲垣の細君も思出したように、「誰でもそうですよ、あんな哀《かな》しいことは有りませんよ」
「もう一度私もあんな涙を零してみたい――」とお杉も笑って、乾いた口唇を霑《うるお》すようにした。「アアアア、こんなお婆さんに成っちゃ終《おしまい》だ……年を拾うばかしで……」
「厭《いや》だよ、この娘《こ》は――ブルブル震えてサ」と稲垣の細君は娘の顔を眺めて言った。
「何だか小母《おば》さんの身体まで震えて来た」
 こうお杉は細君の手から娘を抱取るようにして笑った。
 静かな夜であった。上野の鐘は寂《しん》とした空気に響いて聞えて来た。留守居の女達は、楽しい雑談に耽《ふけ》りながら、皆なの帰りを待っていた。
 柱時計が十時を打つ頃に成って、一同車で帰って来た。急に家の内は人で混雑《ごたごた》した。
「どうも名倉さんの母親《おっか》さんには感心した。シッカリしたものだ」
 こう実と稲垣とは互に同じようなことを言った。復た酒が始まった。その時、三吉の妻は家の人々や稲垣の細君などに引合わされた。
「お俊ちゃん、叔母さんが一人増えたことね」と稲垣の娘が言った。
「ええ、そうよ、お雪叔母さんよ」とお俊も笑った。
「稲垣さん、種々《いろいろ》御尽力で難有《ありがと》う御座いました」と実は更に盃を差した。
「酒はもう沢山」と稲垣は手を振って、「今夜のように私も頂いたことは有りません」
「こんな嬉しいことは無い」と実は繰返し言った。「私一人でも今夜は飲み明かさなくちゃ成らん」


「三吉――宗蔵はお前の方へ頼む。今度田舎へ行く序《
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