の家が東京へ引越したばかりの頃、一度彼女は母と一緒に成ったことや、その時も夫がある女に関係して、その為に長年薬方を勤めた大番頭の一人が怒って暇を取ったことや、その時こそは夫婦別をしようかとまで彼女も悲しく思ったことや、それからその時ぎり母にも逢えなかったことなどを胸に浮べて行った。
小泉の家も段々小さく成った。ある狭い路地を入って、溝板《どぶいた》の上を踏んで行くと、そこには種々な生活を営む人達が一種の陰気な世界を形造っている。お種は薄暗い格子戸の前に立った。
「誰方《どなた》?」
こう若々しい声で言って、内から顔を出したのは、お俊であった。
「母親さん――橋本の伯母《おば》さんが被入《いら》しってよ」
と復た娘は奥の方へ声を掛けた。橋本の伯母と聞いて、お倉は古びた簾《すだれ》の影から這出《はいだ》した。毎年のようにお倉は脚気《かっけ》を煩《わずら》うので、その夏も臥《ね》たり起きたりして、二人の娘を相手に侘《わび》しい女暮しをしているのである。
過去った日を思わせるような、こういう住居《すまい》に不似合なほど大きい長火鉢《ながひばち》の側で、女同志は話した。
「三吉が来いと言ってくれるで、私も暫時《しばらく》彼《あれ》の方へ行って厄介に成るわいなし」とお種が言った。
「そりゃ、まあ結構です――三吉さんは私共へも一寸寄って下さいました」とお倉は寂しそうに笑いながら、「私がこんな幽霊のような頭髪《あたま》をしていたもんですから、三吉さんも驚いて逃げて行って了いました……」
「私でも、ドモナラン」
この「ドモナラン」は茶盆をそこへ取出したお俊を笑わせた。
「俊」とお倉は娘の方を見て、「貰ったお茶が有ったろう」
「母親さん、あのお茶は最早《もう》駄目よ」とお俊はすこし顔を紅くした。
「お倉さん、番茶で沢山です。そんなに関《かま》って下さると、生家《さと》へ来たような気がしない……」とお種は快活らしく笑って、
「そう言えば、三吉も可笑《おか》しなことを言う奴だテ。私が豊世を連れて彼《あれ》の宿まで逢いに行きましたら、何をまた彼が言出すかと思うと、何処《どこ》も彼処《かしこ》も後家さんばかりに成っちゃった――なんて。私は怒ってやった」
「真実《ほんと》に、皆な後家さんのようなものですよ――でも、姉さんなぞは未だ好う御座んすサ。私を御覧なさいな。私くらい運の悪い者は無い――私は小泉へお嫁に来ましてから、旦那と一緒に暮したなんてことは、貴方の三分一も有りゃしません――留守、留守で、そんなことばかりしてるうちに一生済んで了いました」
染めずにいるお倉の髪は最早|老婦《としより》のように白い。
不幸《ふしあわせ》だ、不幸だと言いながら気の長いお倉の様子は、余計にお種をセカセカさせた。
お種は自分の生家《さと》を探すような眼付をして、四辺《あたり》を眺め廻した。実は留守、お杉は亡くなる、宗蔵は他《よそ》へ預けられている、よく出入した稲垣《いながき》夫婦なぞも遠く成った。僅《わず》かに兄弟の力を頼りに細々と煙を立てる有様である。二間ばかりある住居で、日も碌《ろく》に映《あた》らなかった。それに、幾度か引越した揚句《あげく》のことで、ずっと昔の生家を思出させるような物は殆んどお種の眼に映らない。唯、奥の方の壁に、父の遺筆が紙表具の軸に成って掛っている。そこには、未だそれでも忠寛の精神が残っていて、廃《すた》れ行く小泉の家に対するかのようである……
こういう衰えた空気の中でも、お俊はズンズン成長した。高等女学校程度を卒《お》える程の年頃に成った。
「御蔭様で、俊も、学校の方の成績は始終優等だもんですから、校長先生も大層肩を入れて下さいましてネ」と言って、お倉は娘の方を見て、「お前の描いた画を持って来て、伯母さんにお目にお掛けな」
お俊は幾枚かの模写をそこへ取出して来て、見せた。この娘は自分で模様を描いた帯を〆《しめ》ていた。
「漸《ようや》くこういう色彩《いろ》の入ったものを許されました」とお倉は娘の画をお種に指して見せて、「三吉さんが、画や歌のお稽古《けいこ》は止《や》めて学校だけにさしたら可かろう――なんて言うんですけれど、折角今までやらしたものですから、せめて画の先生だけへは通わせたいと思いますんですよ。俊も好きですから……」
「そうですとも。ここで止めさせるのは惜しいものだ」とお種が言った。
「私もネ、何を倹約しても斯娘《これ》には掛けたいと思いまして……どうして、貴方、この節では母親《おっか》さんの言うことなぞを聞きやしません。何ぞと言うと私の方がやりこめられる位です」
「教育が違いますからネ」
「ええええ、私共の若い時なぞは、今のように学校が有るじゃなし……」
「鶴は?」とお種はお俊の妹のことを聞いてみた。
「御友達
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