その晩は一緒に遊ぼうともしなかった。急にお房は反返《そりかえ》って、鼻を鳴らしたり、足で蹴《け》ったりした。お雪は肥え太った子供の首のあたりへ線香の粉にしたのを付けた。お房は怒って、泣いた。乳房を咬《くわ》えさせて、お雪は沈んで了った。
田舎《いなか》の盆過に、復た曾根は三吉の家を訪ねた。その時は一人でやって来た。水車の音も都会の人にはめずらしかった。暫時《しばらく》彼女は家の門口に立って、垣根のところから南瓜の生《な》り下ったような侘《わび》しい棲居《すまい》のさまを眺めた。
お雪は裏の柿の樹の下へ洗濯《せんたく》物が乾いたかを見に出た。直樹は遊びに出て居なかった。
「曾根さん――」
とお雪は女の客を見つけて、直に家の内へ案内した。
寂しくている三吉も喜んで迎えた。曾根が一人で訪ねて来たということは、ある目に見えない混雑を三吉の家の内へ持来《もちきた》した。曾根は、戸の間隙《すきま》からでも入って来て、何時の間にか三吉の前に坐っている人のようであった。
「お雪、鮨《すし》でも取りにやっておくれ。それから、お前も話しに来るが可い」と三吉は妻の居る処へ来て言った。
「私なんか……」とお雪はすねる。
「そう言うものじゃないよ。ああいう人の話も聞くものだよ」
こう言って置いて、三吉は客の方へ戻った。
庭に咲いた松葉|牡丹《ぼたん》、凌霄葉蘭《のうぜんはらん》などの花の見える奥の部屋で、三吉は大きな机の上へ煙草盆を載せた。音楽や文学の話が始まった。蜂《はち》と蟻《あり》と蜘蛛《くも》の生活に関する話なども出た。
「こういう田舎で御座いますから、何にも御構い申すことが出来ません」
とお雪は、子供を抱きながら、取寄せたものを持運んで来た。
「まあ、房《ふう》ちゃんで御座いますか」
と曾根は可懐《なつか》しげに言って、お雪の手から子供を借りて抱いてみた。膝《ひざ》の上に載せて、頬《ほお》を推当《おしあ》てるようにもしてみた。お房は見慣れない他《よそ》の叔母《おば》さんを恐れたか、声を揚げて泣叫ぶ。土産《みやげ》にと用意して来た翫具《おもちゃ》を曾根が取出して、それを見せても、聞入れない。お雪はこの光景《ありさま》を見ていたが、やがてお房を抱取って、炉辺の方へ行って了った。
暫時《しばらく》、曾根は耳を澄まして、お房の泣声を聞いていた。
「昨晩は――私は眠られませんでした」
と曾根が言って、避暑地の霧に悩まされていることなどを話出した。彼女は、何かこうシッカリと捉《つか》まる物でも無《なけ》れば、自分の弱い体躯《からだ》まで今に何処へか持って行かれて了うような眼付をした。
「日記といえば」と曾根は又思出したように、「私も日記をつけてみましたけれど……不平なようなことばかりで、面白くないものですから、大晦日《おおみそか》の晩に焼いて了いました。そして、元日に遺言状を書きました。ああ狂《きちがい》……私のようなものが世の中に居るのは間違なんで御座いましょう……」
深く沍々《さえざえ》とした彼女の黒瞳《くろめ》は自然と出て来る涙の為に輝いた。
その日、曾根は興奮した精神《こころ》の状態《ありさま》にあった。どうかすると、悲哀《かなしみ》の底から浮び上ったように笑って、男というものを嘲るような語気で話した。
お雪はこの仲間入に呼出されても、直に勝手の方へ行って、妹を相手に洗濯物を取込むやら、霧を吹いて畳むやらしていた。曾根が礼を述べて、別れて帰る時、お雪は炉辺で挨拶《あいさつ》した。
「まあ、宜しいじゃ御座いませんか……もっと御緩《ごゆっくり》なすったら奈何《いかが》で御座います……」
と客を引留めるように言ったが、曾根は汽車の時間が来たからと断《ことわ》って、出た。三吉はお雪に言付けて、停車場まで見送らせることにした。
お雪が子供を背負《おぶ》いながら引返して来てみると、机の下に、「お雪さまへ、千代」とした土産が置いてあった。千代とは曾根の名だ。
「曾根さんは黙ってこういうことをして行く人だ」と三吉が笑った。
お雪はその紙に包んだ女持の※[#「※」は「巾へん+白」、第4水準2−8−83、113−4]子《ハンケチ》を眺めながら、「汽車が後《おく》れて、大分停車場で待ちましたよ――三十分の余も」
「何か話が出たかネ」と三吉は聞いてみた。
「曾根さんが私のことを、『大変貴方は顔色が悪い』なんて……」
何となく家の内はガランとして来た。三吉夫婦は互に顔も見合せずに、黙って食卓に対《むか》うことすら有った。
むずかしい顔付をして考え込んでばかりいるような夫の様子は、お雪の小さな胸を苦しめた。この機嫌《きげん》の取りにくい夫の言うことは、又、彼女に合点の行かないことが多かった。夫はお房が可愛くて成らないという風で、「
前へ
次へ
全74ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング