雪の友達にもと思って三吉が紹介した一人の婦人からは、結婚の報知《しらせ》が来た。三吉は又曾根からも山の上へ避暑に行こうと思うという手紙を受取った。
六
停車場《ステーション》の方で汽車の音がする。
山の上の空気を通して、その音は南向の障子に響いて来た。それは隅田川《すみだがわ》を往復する川蒸汽の音に彷彿《そっくり》で、どうかするとあの川岸に近い都会の空で聞くような気を起させる。よく聞けばやはり山の上の汽車だ。三吉はそれを家のものに言って、丁度離れた島に住む人が港へ入る船の報知《しらせ》でも聞くように、濡縁《ぬれえん》の外まで出て耳を立てた。新聞にせよ、手紙にせよ、新しい書籍《ほん》の入った小包にせよ、何か一緒に置いて行くものはその音より外に無かった。三吉は曾根から来た手紙のことを胸に浮べた。最早《もう》山の上に来ているかしらん、とも思った。
曾根が一夏を送りたいと言って寄《よこ》したは、三吉夫婦が住む町とは五里ばかり離れたところにある避暑地である。同じ山つづきの高原の上で、夏は人の集る場所である。
東京へ行った学生達はポツポツ帰省する頃のことであった。三吉の家へは、復《ま》たお福がやって来ていた。
丁度三吉も半日しか学校のない日で、外出する用意をして、炉辺で昼飯《ひる》をやった。
「何処《どちら》へ?」とお雪は給仕しながら尋ねてみた。
「曾根さんが来てるか行って見て来ようと思う」こう三吉は答えた。
「最早いらしったんでしょうか」とお雪は夫の顔を眺める。
「居るか居ないか解らんがね、まあ遊びがてら行って見て来る」
三吉が曾根を妻に紹介して、二人の女の間を結び付けようとしたのは、家庭の友として恥かしからぬ人と思ったからで。曾根は音楽に一生を托《たく》しているような婦人で、三吉が向いて行こうとする方面にも深く興味を有《も》っていた。言わば、三吉には、自分を知ってくれる人の一人と思われた。この思想《かんがえ》が彼を喜ばせた。
しかし、お雪はあまり喜ばないという風であった。三吉が曾根のことを言って、彼女の身内が悲惨な最期を遂げた時に、それを独《ひと》りで仕末したという話をして、「どうして、お前なかなかシッカリモノだぜ」などと言って聞かせると、「その話を聞くのはこれで三度目です」とか何とかお雪の方では笑って、「最早《もう》沢山」という眼付をする。お雪は曾根を知ろうともしなかった。どうしてこう女同志は友達に成れないものかしらん、と三吉は嘆息することも有った。
三吉は妻の狭い考えを笑った。そして、男とか女とかということを離れて、もっと種々な人を知りたいと思った。
「何卒《どうぞ》、御|逢《あ》いでしたら宜敷《よろしく》」
こういう妻の言葉を聞捨てて、三吉は出て行った。暑い日であった。
曾根の宿を探しあぐんで、到頭三吉は分らず仕舞に自分の家の方へ引返した。ギラギラするような日光を通して見た避暑地の光景《ありさま》は、三吉の心を沈着《おちつ》かせなかった。彼は種々な物の象《かたち》を眼に浮べながら帰って来た――ところどころに新築された別荘、赤く塗った窓、蕃牡丹畠《キャベツばたけ》……それから古い駅路の両側にある並木、その蔭を往来する避暑客、金色な髪の子供を連れて歩く乳母……
三吉は又、はじめて曾根を知った当時のことを想《おも》いながら帰って来る人であった。多勢若い男や女の居る部屋で、ふと曾根は三吉の傍へ来て、亡くなった友達のことを尋ねた。机の上には、短い曲の譜があった。「神の意《こころ》のままに」という題で、男女《おとこおんな》の別離《わかれ》を歌ったものだった。メンデルソオンの曲だ。その一節を、曾根は極く小さい震えるような声で歌って聞かせた。音楽者の癖で、曾根が手の指は無心に洋琴《ピアノ》の鍵盤に触れるように動いた。これはそう旧《ふる》いことでも無かった。急に、三吉はこの人と親しみを増すように成った。十年一日のような男同士の交際とは違って、何故《なぜ》かこう友情を急がせるようなところもあった。
垣根に這《は》わせた南瓜《かぼちゃ》は最早盛んに咲く頃であった。その大きな黄色い花に添うて、三吉は往来の方から入って来た。家には珍しい客が待っていた。
「直樹さん――」思わず三吉は微笑《ほほえ》んで言った。
「兄さんのお留守へやって参りました」と直樹も出て迎えた。
この中学生は、三吉が一緒に木曾路《きそじ》を旅した頃から比べると、見違えるほど成人していた。丁寧な口の利《き》きようからして、いかにも都会に育った青年らしい。丁度この直樹位の年頃の生徒を毎日学校で相手にしている三吉には、余計にその相違が眼についた。直樹は父の許を得て、暑中休暇を三吉の家で送ろうとして来たのである。
日頃親身の弟のように思う人が
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