ら、三吉はお雪から身上《みのうえ》の話を聴取ろうと思った。夫婦は不思議な顔を合せた――今まで合せたことのない顔を合せた――結婚する前には、互に遠くの方でばかり眺めていたような顔を……
「勉さんとお前とはどういう関係に成っていたのかネ」三吉は何気なく言出した。
「どういうとは?」とお雪はすこし顔を紅めて。
「家の方でサ。そういうことはズンズン話して聞かせる方が可い」
 その時、三吉は妻の口から、勉と彼女とは親が認めた間柄であること、夫婦約束を結ばせたではないが親達の間だけにそういう話のあったこと、店の番頭に邪魔するものが有って、あること無いこと言い触らして、その為に勉の方の話は破れたことなどを聞いた。
 済んだことは済んだこと、こう妻は言い消して了おうとした。夫はそれでは済まされなかった。
 寂しい心が三吉の胸の中に起って来た。その心は、女をいたわるということにかけて、自分もまた他の男に劣るものではないということを示させようとした。その日、三吉は種々と細君の機嫌《きげん》を取った。機嫌を取りながら、悶《もだ》えた。


 間もなく勉から返事が来た。一通は三吉へ宛て、一通はお雪へ宛ててあった。お雪へ宛てては、「自分の為に君にまで迷惑を掛けて気の毒なことをした、君に咎《とが》むべきことは一つも無い、何卒《どうか》自分にかわって君から詫《わび》をしてくれよ」という意味が書いてある。お雪はその手紙を読んで泣いた。
 月を越えて、三吉の家では一人の珍客を迎えた。三吉は停車場まで行って、背の高い、胡麻塩《ごましお》の鬚《ひげ》の生えた、質素な服装《みなり》をした老人を旅客の群の中に見つけた。この老人が名倉の父であった。
「まあ、阿父《おとっ》さん……」
 とお雪も門に出て迎えた。
 名倉の父は、二人の姉娘に養子して、今では最早余生を楽しく送る隠居である。強い烈《はげ》しい気象、実際的な性質、正直な心――そういうものはこの老人の鋼鉄のような額に刻み付けてあった。一代の中に幾棟《いくむね》かの家を建て、大きな建築を起したという人だけあって、ありあまる精力は老いた体躯《からだ》を静止《じっと》さして置かなかった。愛する娘のお雪が、どういう壮年《わかもの》と一緒に、どういう家を持ったか、それを見ようとして、遙々《はるばる》遠いところを出掛けて来たのであった。
「先ずこれで安心しました」
 と老人はホッと息を吐《つ》くように言った。
 南向の部屋の柱には、新しい時計が懸った。そして音がし出した。若夫婦へ贈る為に、わざわざ老人が東京から買って提《さ》げて来たのである。これは母から、これは名倉の姉から、これは※[#「※」は「○の中にナ」、97−7]の姉から、と種々な土産物《みやげもの》がそこへ取出された。
 煤《すす》けた田舎風の屋《うち》の内《なか》を見て廻った後、老人は奥の庭の見える座敷に粗末な膳《ぜん》を控えた。お雪やお福のいそいそと立働くさまを眺めたり、水車の音を聞いたりしながら、手酌でちびりちびりやった。
「何卒《どうぞ》もうすこしも関《かま》わずに置いて下さい。私はこの方が勝手なんで御座いますから」
 と老人が言った。何がなくともお雪の手製《てづくり》のもので、この酒に酔うことを楽みにして来たことなどを話した。
 三吉は炉辺へお雪を呼んで、
「何かもうすこし阿爺さんに御馳走《ごちそう》する物はないかい」
「あれで沢山です」とお雪が言う。
「こんな田舎じゃ何物《なんに》も進《あ》げるようなものが無い。罐詰《かんづめ》でも買いにやろうか」
「宜《よ》う御座んすよ。それに、阿爺さんは後から何か持って行ったって、頂きやしません」
 幼少の時父に別れた三吉は、こういう老人が訪ねて来たことを珍しく嬉しく思った。父というものは彼がよく知らないようなもので有った。三吉が何時《いつ》までも亡くなった忠寛を畏《おそ》れているように、お雪やお福は又、この老人を畏れた。


 名倉の父は二週間ばかり逗留《とうりゅう》して、東京の学校の方へ帰るお福を送りながら、一緒に三吉の家を発《た》って行った。この老人は橋本の姉や小泉の兄の方に無いようなものを後へ残して行った。そして、亡くなった忠寛が手本を残しておいた家の外《ほか》に、全く別の技師が全く別の意匠で作った家もある、ということを三吉に思わせた。「こんな書籍《ほん》を並べて置いたって、売ると成れば紙屑《かみくず》の値段《ねだん》だ」――こう言うほど商人気質《しょうにんかたぎ》の父ではあったが、しかし三吉はこの老人の豪健な気象を認めずにはいられなかった。
 翌年の五月には、三吉夫婦はお房という女の児《こ》の親であった。書生は最早居なかった。手の無い家のことで、お雪は七夜《しちや》の翌日から起きて、子供の襁褓《むつき》を洗っ
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