大島先生があの娘の家へ行って泊ってたことも有るそうだ」と復《ま》た実が言った。「その時話が出たものだろう。父親さんという人が又余程変ってるらしいナ」
 こう実は種々《いろいろ》と先方の噂《うわさ》をして、「三吉も、それでもお嫁さんを貰うように成ったかナア――早いものだ」などと言って笑った。実が前垂掛で胡坐《あぐら》にやっている側には、大きな桐《きり》の机が置いてあって、その深い抽斗《ひきだし》の中に平常《いつも》小使が入れてある。お倉は夫の背後《うしろ》へ廻って要《い》るだけの銭の音をさせて、やがて用事ありげに勝手の方へ出て行った。
「宗さんを措《お》いて、僕が家を持つのも変なものですネ」と三吉は言出した。
「あんな者はダチカン」と実は思わず国の言葉を出した。「どれ程俺が彼《あれ》に言って聞かせて、貴様は最早死んだ者だ、そう思って温順《おとな》しくしておれ、悟《さとり》を開いたような気分でおれッて、平常《しょっちゅう》言うんだが……それが彼には解らない」
「どうしてあんな風に成っちまったものですかナア」
「放蕩《ほうとう》の報酬《むくい》サ」
「余程|質《たち》の悪い婦女《おんな》にでも衝突《ぶつか》ったものでしょうかナア」
「皆な自分から求めたことだ。それを彼が思ったら、もうすこし閉口しておらんけりゃ成らん。土台間違ってる……多勢兄弟が有ると、必《きっ》とああいう屑《くず》が一人位は出て来る……何処《どこ》の家にもある」
 宗蔵の話が出ると、実は口唇《くちびる》を噛《か》んで、ああいう我儘《わがまま》な、手数の掛る、他所《よそ》から病気を背負って転がり込んで来たような兄弟は、自分の重荷に堪えられないという語気を泄《もら》した。そればかりではない、実が宗蔵を嫌《きら》い始めたのは、一度宗蔵が落魄《らくはく》した姿に成って故郷の方へ帰って行った時からであった。その頃は母とお倉とで家の留守をしていた。お倉は未だ若かった。
「兄弟に憎まれれば、それだけ損だがナア」と実は嘆息するように言った。「いずれ宗蔵の為には、誰か世話する人でも見つけて、其方《そっち》へ預けて了おうと思う――別にでもするより外に仕様のない人間だ」


 三吉も書生ではいられなくなった。家を持つ準備《したく》をする為には、定《きま》った収入のある道を取らなければ成らなかった。彼は学校教師の口でも探すように
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