余儀なくされた。
 ある日、実は弟に見せる物が有ると言って、例の奥座敷へ三吉を呼んだ。
「三吉さん――私もすこし兄さんに御話したいことが有る。御手間は取らせませんから、先へ私に話させて下さいな」
 こう稲垣の細君が来て言って、三吉と一緒に実の居る方へ行った。実は直に細君の用事ありげな顔付きを看《み》て取った。
 稲垣の細君は何遍か言淀《いいよど》んだ。「そりゃもう、皆さんの成さる事業《こと》ですから、私が何を言おうでは有りませんが……何時まで待ったら験《けん》が見えるというものでしょう。どうも吾夫《やど》の話ばかりでは私に安心が出来なくて……」
「ああ、車の方の話ですか」と実はコンコン咳《せき》をした後で言った。「ちゃんと技師に頼んで有りますからね。そんな心配しなくても、大丈夫」
「いえ――吾夫《やど》でも、小泉さんに御心配を掛けては済まない、そのかわり儲《もう》けさして頂く時には――なんて、そう言い暮しましてね。実際|吾夫《やど》も苦しいもんですから、田舎から出て来た母親《おっか》さんを欺《だま》すやら、泣いて見せるやら、大芝居をやらかしているんですよ」
「お金の要ることが有りましたら、稲垣さんにもそう言って置きましたが――銀行に預けて有りますからね」
「そう言って頂けば私も難有《ありがた》いんですけれど……でも、何んとか前途《さき》の明りが見えないことには……何処まで行けばこの事業《しごと》が物に成るものやら……」と言って、細君は不安な眼付をして、「私がこんなことを言いに来たなんて、吾夫に知れようものなら、それこそ大叱責《おおしかられ》――殿方と違って女というものはとかくこういうことが気に成るもんですよ」
 稲垣の細君は実の機嫌を損《そこ》ねまいとして、そう煩《うるさ》くは言わなかった。お俊の噂、自分の娘のことなどを少し言って、やがてお倉の居る方へ起《た》って行った。
 実の机の上には、水引を掛けるばかりにした祝の品だの、奉書に認《したた》めた書付だのが置いてあった。兄は先方へ贈るように用意した結納《ゆいのう》の印を開けて弟に見せた。
「どうだ――大島先生から届けて貰うようにと思って、こういう帯地を見立てて来た――繻珍《しゅちん》だ」
「こんな物でなくっても可かったでしょうに」と三吉は言ってみた。
「兄貴が附いてて、これ位のことが出来ないでどうする――俺の体面に
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