いのい」は弟達を笑わせた。
「真実《ほんと》に、有る物は皆な分けてくれて了ったようなものですよ」とお倉は思出したように、「それが旧《むかし》からの習慣で……小泉の家はそういうものと成っていましたから……吾夫《やど》もね、それも未だ少壮《わか》い時に、どうでもこうでも小泉の旦那に出て貰わんければ、村が治まらないなんて言われて、村長にまで引張り出されたことが有りましたよ。あの時だって、村の為に自分の物まで持出してサ……父親《おとっ》さんは又、癇《かん》の起る度に家を飛出す。峠の爺を頼んで連れて来て貰うたッて、お金でしょう。何度《なんたび》にか山や林を売りました。所詮《とても》これではヤリキレないと言って、それから吾夫《やど》が郡役所などへ勤めるように成ったんです。事業に手を出し始めてからだっても、そうですよ。一度でも自分に得したことは無い……何時《いつ》でも損ばかり……苦しいもんですから種々な人を使用《つか》う気に成る、そうしちゃあ他《ひと》の分まで皆な自分で背負込んで了う……それを思うと、私は吾夫《やど》が気の毒にも成ってサ」
思わず嫂は弟達や稲垣の細君を前に置いて話し込んだ。
「そうだ――自分に得したことの無い人だ」と三吉も言ってみた。
その日は宗蔵も珍しく機嫌よく、身体の不自由を忘れて、嫂の物語に聞恍《ききほ》れていた。実が刑余の人であるにも関《かかわ》らず、こういう昔の話が出ると、弟達は兄に対して特別な尊敬の心を持った。
主人の実は屋外《そと》から帰って来た。続いて稲垣も入って来た。夫の声が格子戸のところで聞えたので、急に稲垣の細君は勝手の方へ隠れて、やがて娘のことを案じ顔に裏口からコソコソ出て行った。
「家内は御宅へ参りませんでしたか」と稲垣は縁側から顔を出して尋ねた。
「ええ、今し方まで……」とお倉は笑いながら答える。
「オイ、稲垣君、君は細君を掃出《はきだ》したなんて――今、細君が愁訴《いいつけ》に来たぜ」と宗蔵も心やすだてに。
「いえ――ナニ――」と稲垣は苦笑《にがわらい》して、正直な、気の短かそうな調子で、「少しばかり衝突してネ……彼女《あいつ》は口惜《くやし》紛《まぎ》れに笄《こうがい》を折ちまやがった……馬鹿な……何処の家にもよくあるやつだが……」
「子供が有るんで持ったものですよ」とお倉は慰め顔に言って、寂しそうな微笑《えみ》を見せた。
前へ
次へ
全147ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング