。この娘は、髪も未だそう黒くならない年頃で、鬢《びん》のあたりは殊《こと》に薄かった。毎朝|美男葛《びなんかずら》で梳付《ときつ》けて貰って、それから学校へ行き行きしていた。
「お俊ちゃん、毎晩画を御習いですか」と稲垣はお俊の方を見て、「此頃《こないだ》習ったのを見て、驚いちまいました。どうしてああウマく描けるんでしょう」
「可笑《おか》しいんですよ」とお倉も娘の顔を眺めながら、「田舎娘だなんて言われるのが、どの位厭だか知れません――それを言われようものなら、プリプリ怒って了います」
「よくッてよ」とお俊は母の身体を動《ゆす》ぶるようにする。
「私の許《とこ》の娘もね」と稲垣はそれを言出さずにいられなかった。「お俊ちゃんが画をお習いなさるというから、西洋音楽でも習わせようかと思いまして……ピアノでも……ええ、三味線《しゃみせん》や踊を仕込むよりもその方が何となく高尚ですから……」
稲垣の話は毎時《いつでも》自分の娘のことに落ちて行った。それがこの人の癖であった。
「どれ程稲垣は娘が可愛いか知れない」と宗蔵は稲垣の出て行った後で言った。「あの男の御世辞と来たら、堪《こた》えられないようなことを言うが……しかし、正直な男サ」
宗蔵と三吉との年齢《とし》の相違《ちがい》は、三吉と正太との相違であった。この兄弟の生涯は、喧嘩《けんか》と、食物《くいもの》の奪合と、山の中の荒い遊戯《あそび》とで始まったようなもので。実に引連れられて東京へ遊学に出た頃は、未だ互に小学校へ通う程の少年であった。丁度それは二番目の兄の森彦が山林事件の総代として始めて上京して、当時|流行《はや》った猟虎《らっこ》の帽子を冠りながら奔走した頃のことで。その後、宗蔵の方は学校からある紙問屋へ移った。そこに勤めている間、よく三吉も洗濯物を抱《かか》えて訪ねて行くと、盲目縞《めくらじま》の前垂を掛けた宗蔵がニコニコして出て来て、莚包《こもづつみ》の荷物の置いてある店の横で、互に蔵の壁に倚凭《よりかか》りながら、少年らしい言葉を取換《とりかわ》した。「宗様、宗様」と村中の者に言われて育って来た奉公人の眼中には、大店《おおだな》の番頭もあったものではなかった。何か気に喰《く》わぬことを言われた口惜《くやし》まぎれに、十露盤《そろばん》で番頭の頭をブン擲《なぐ》ったのは、宗蔵が年季奉公の最後の日であった。
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