雪洞《ぼんぼり》を点《とも》して表座敷の方へ見に行った。三吉と直樹とは最早《もう》枕を並べて眠っていたが、まだ正太は帰らなかった。お種は表庭から門のところへ出て、押せば潜《くぐ》り戸《ど》の開くようにして置いた。厳《きび》しい表庭の戸締も掛金だけ掛けずに置いたは、可愛い子の為であった。

        二

 大森林に連続《つづ》いた谷間《たにあい》の町でも、さすがに暑い日は有った。三吉は橋本の表座敷に籠《こも》って、一夏かかって若い思想《かんがえ》を纏《まと》めようとしていた。姉は仕事に疲れた弟を慰めようとして、暇のある時は、この家に伝わる陶器、漆器、香具《こうぐ》の類《たぐい》などを出して来て見せた。ある日、お種は大きな鍵《かぎ》を手にしながら、裏の土蔵の方へ弟を導いて行った。
 高い白壁の隣には、丁度物置蔵と反対の位置に、屋根の低い味噌蔵《みそぐら》がある。姉はその前に立って、大きな味噌|桶《おけ》を弟に覗《のぞ》かせて、毎日食膳に上る手製の醤油《たまり》はその中で造られることなどを話して、それから厳重な金網張の戸の閉った土蔵の内部《なか》へ三吉を案内した。
 二階は広く薄暗かった。一方の窓から射し込む光線は沢山《たくさん》積んである本箱や古びた道具の類を照らして見せた。姉は今一つの窓をも開けて、そこにあるのは祖母《おばあ》さんが嫁に来た時の長持、ここにあるのは自分の長持、と弟に指して話し聞かせた。三吉は自由に橋本の蔵書を猟《あさ》ることを許された。
 姉は出て行った。三吉は本箱の前を彼方是方《あちこち》と見て廻った。その時、彼は未だ自分の生れた家の焼けない前に一度帰省して阿爺《おやじ》の蔵書を見たことを思出して、それをこの家のに比べてみた。ここのはそれ程豊富では無かった。三吉の阿爺が心酔したような本居《もとおり》派の学説に関する著述だの、万葉や古事記の研究だの、和漢の史類だの、詩歌の集だの、そういうものは少なかったが、そのかわり橋本の家に特有な武術、武道などのことを書いた写本が沢山ある。経書《けいしょ》、子類《しるい》もある。誰が集めたものか漢訳の旧約全書などもある。見て行くと、三吉の興味を引くような書目は少なかった。窓に寄せて、大きな柳行李《やなぎごうり》の蓋《ふた》が取ってあって、その中に達雄の筆で表題を書いたものが幾冊か取散してある。旧《ふる》い日記
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