ぜん》を運んで来た。
お種は嘉助の前にも膳を据えて、
「今日は旦那も骨休めだと仰《おっしゃ》るし、三吉も来ているし、何物《なんに》も無いが河魚で一杯出すで、お前もそこで御相伴《ごしょうばん》しよや」
こう言われて、嘉助は癖のように禿頭《はげあたま》を押えた。
「さ、御酌致しましょう」
と嘉助は遠慮深い膝を進めた。この人は前垂を〆《し》めてはいるが、武術の心得も有るらしい体格で、大きな律義《りちぎ》そうな手を出して、旦那や客に酒を勧めた。
何時《いつ》の間にか話も若旦那のことに落ちて行った。お種は台所の方にも気を配りながら、時々部屋を出て行くかと思うと、復《ま》た入って来て、皆なと一緒に息子のことを心配した。
「いッそのこと、その娘を貰ってやったら可いじゃ有りませんか」三吉は書生流儀に言出した。
「そんな馬鹿なことが出来るもんですかね」とお種は嘲《あざけ》るように言って、「お前さんは何事《なんに》も知らないからそんなことを言うけれど」
「それに、お前さま」と嘉助は引取って、紅《あか》く充血した眼で客の方を見て、「娘の親というものが気に入りません……これは、まあ、私の邪推かも知《しれ》ませんが、どうも親が背後《うしろ》に居て、娘の指図《さしず》をするらしい……」
お種は何か思出したように、物に襲われるような眼付をしたが、それを口に出そうとはしなかった。
「よしんば、そうでないと致したところで」と嘉助は言葉を継いで、「家の格が違います。どうして、お前さま、あんな家から橋本へ貰えるものかなし……」
暮れかかって来た。屋根を越して来る山の影が、庭にもあり、一段高く斜に見える蔵の白壁にもあり、更に高い石垣の上に咲く夕顔|南瓜《かぼちゃ》などの棚《たな》にもあった。この家の先代が砲術の指南をした頃に用いた場所は、まだ耕地として残っていたが、その辺から小山の頂へかけて、夕日が映《あた》っていた。
百姓の隠居も鍬《くわ》を肩に掛けて、上の畠《はたけ》の方から降りて来た。
夕飯時を報《しら》せる寺の鐘が谷間に響き渡った。達雄は、縁先から、自分の家に附いた果樹の多い傾斜を眺めて、一杯は客の為に酌《く》み、一杯はよく働いてくれる大番頭の為に酌み、一杯は自分の健康の為に酌んだ。
「何卒《どうか》して、まあ、若旦那にも好いお嫁さんを……」と嘉助は旦那から差された盃《さかずき
前へ
次へ
全147ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング