「解るは、よかった」達雄は笑った。
 お種は三吉の方を見て、「すこし込入った話に成ると、お仙には好く解らない風だ。そのかわり、奇麗な気分のものだぞや」
「真実《ほんと》に、好い姉さんに成りましたネ」と三吉が言う。
「彼女《あれ》も最早《もう》女ですよ。その事は私がよく言って聞かせて、誰にでも普通《あたりまえ》に有ることだからッて教えて置いたもんですから、ちゃんと承知してる。こうして大きく成って、可惜《おし》いようなものだが、仕方が無い。行く行くは一軒別にでもして、彼女が独りで静かに暮せるようだったら、それが何よりですよ」
「そんなことをしないたッて、お婿さんを貰ってやるが可い」と三吉は戯れるように言った。
「叔父さんはああいうことを言う……」
 とお仙は呆《あき》れて、笑い転げるように新座敷へ逃出した。


 風呂が沸いたと言って、下婢《おんな》のお春が告げに来た頃、先ず達雄は連日の疲労を忘れに行った。
「お仙、ちゃっと髪を結って了《しま》わまいかや」とお種は、炉辺へ来て待っている髪結を呼んで、古風な鏡台だの櫛箱《くしばこ》だのを新座敷の方へ取出した。
「三吉。すこし御免なさいよ」とお種は鏡の前に坐りながら言った。「私は花が好きだで、今年も丹精して造りましたに見て下さい――夏菊がよく咲きましたでしょう」
 三吉は庭に出て、大きな石と石の間を歩いたが、不図《ふと》姉の後に立つ女髪結を見つけて不思議そうに眺めていた。髪結は種々な手真似《てまね》をしてお種に見せた。お種は笑いながら、庭に居る弟の方を見て、「この髪結さんは手真似で何でも話す。今東京から御客さんが来たそうだが、と言って私に話して聞かせるところだ――唖《おし》だが、悧好《りこう》なものだぞい」こう言い聞かせた。
 深い屋根の下にばかり日を送っているお種は、この唖の髪結を通して、女でなければ穿鑿《せんさく》して来ないような町の出来事を知り得るのである。髪結は又、人の気の付かないことまで見て来て、それを不自由な手真似で表わして見せる。その日も、親指を出したり、小指を出したり、終《しまい》に額のところへ角を生《はや》す真似をしたりして、世間話を伝えながら笑った。
 日暮に近い頃から、達雄、三吉の二人は涼しい風の来る縁先へ煙草盆を持出した。大番頭の嘉助も談話《はなし》の仲間に加わった。そこへお仙やお春が台所の方から膳《
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