がら、
「ちょッ。風邪《かぜ》を引くじゃないか」
 と叱るように言って、無理に子供を床の中へ引入れた。お房は起きたがって母に抱かれながら悶《もが》き暴《あば》れた。
 水車小屋の方では鶏が鳴いた。洋燈は細目に暗く赤く点《とぼ》っていた。お雪は頭を持上げて、炉辺《ろばた》に寝ている下婢を呼起そうとした。幾度も続けざまに呼んだが、返事が無い。
「ああああ、驚いちまった」
 お雪は嘆息した。この呼声に、下婢が眼を覚まさないで、子供が泣出した。
「ハイ」
 と下婢は呼ばれもしない頃に返事をして、起きて寝道具を畳んだ。下婢が台所の戸を開ける頃は、早起の隣家の叔母《おば》さんは裏庭を奇麗に掃いて、黄色い落葉の交った芥《ごみ》を竹藪《たけやぶ》の方へ捨てに行くところであった。
「どんなにお前を呼んだか知れやしない……いくら呼んだって、返事もしない」
 こうお雪が起きて来て言った。
 暗い、噎《む》せるような煙は煤《すす》けた台所の壁から高い草屋根の裏を這って、炉辺の方へ遠慮なく侵入して行った。家の内は一時この煙で充《み》たされた。未だ三吉は寝床の上に死んだように成っていた。
「最早、起きて下さい」
 とお雪が呼起した。三吉は眠がって、いくら寝ても寝足りないという風である。勤務《つとめ》の時間が近づいたと聞いて、彼は蒲団《ふとん》を引剥《ひきは》がすように妻に言付けた。
「宜《よ》う御座んすか。真実《ほんと》に剥がしますよ――」
 お雪は笑った。
 漸《ようや》く正気に返った三吉は、急いで出掛ける仕度をした。その日、彼は学校の方に居て、下婢が持って来た電報を受取った。差出人は東京の実で、直に金を送れとしてある。しかも田舎《いなか》教師の三吉としてはすくなからぬ高である。前触《まえぶれ》も何もなく突然こういうものを手にしたということは、三吉を驚かした。
 兄弟とは言いながら、殆《ほと》んど命令的に金の無心をして寄した電報の意味を考えつつ三吉は家へ帰った。委《くわ》しいことの分らないだけ、東京の家の方が気遣《きづか》わしくもある。とにかく、兄の方で、よくよく困った場合ででもなければ、こんな請求の仕方も為《す》まいと想像された。そして、小泉の一族の上に、何となく暗い雲を翹望《まちもう》けるような気がした。
 三吉は断りかねた。と言って、余裕のあるべき彼の境涯でも無かった。お雪もそれを気の
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