預けてある。今度は俺《おれ》は逢《あ》わなかった。見舞として菓子だけ置いて来た――なにしろ、お前、兄貴の家では非常な変り方サ。でも兄貴は平気なものだ」
「姉さんも御心配でしょうねえ」
こう夫婦が話し合っていると、お房はそこへ来て茶を飲みたいと迫る。母が飲ませてやると言えば、それでは聞入れなかった。なんでもお房は自分で茶椀《ちゃわん》を持って飲まなければ承知しなかった。終《しまい》には泣いて威《おど》した。
「未だ独《ひと》りで飲めもしないくせに」
と言って、お雪が渡すと、子供は茶椀の中へ鼻も口も入れて飲もうとした。皆なコボして了《しま》った。
「それ、御覧なさいな」とお雪は※[#「※」は「巾へん+白」、第4水準2−8−83、134−17]子《ハンケチ》を取出した。
「ア――舌打してらあ。あれでも飲んだ積りだ」と三吉が笑う。
「この節は何でも母さんの真似《まね》ばかりしてるんですよ。母さんが寝れば寝る真似をするし、お櫃《ひつ》を出せば御飯をつける真似をするし――」
「どれ、父さんが一つ抱ッこしてみてやろう――重くなったかナ」と三吉は子供を膝《ひざ》の上に載せてみた。
お房の笑顔《えがお》には、親より外に見せないような可憐《あどけな》さがあった。
「兄貴の家を見たら、俺もウカウカしてはいられなく成って来た」
こう三吉が言って、子供をお雪の手に渡した。
「房ちゃん」と下婢はそこへ来て笑いながら言った。「父さんに股眼鏡《まためがね》してお見せなさい」
「止《よ》せ、そんな馬鹿な真似を」
と三吉が言ったが、お房は母の手を離れて、「バア」と言いながら後向に股の下から母の顔を覗《のぞ》いた。
「隣の叔母さんが、房ちゃんの股眼鏡するのは復《ま》た直に赤さんの御出来なさる証拠だッて」
こう下婢が何の気なしに言った。三吉夫婦は思わず顔を見合せた。
夫婦は眠い盛りであった。殊《こと》に三吉が旅から帰って来てからは、下婢まで遅く起きるように成った。どうかすると三吉の学校へ出掛けるまでに、朝飯の仕度の間に合わないことも有った。
朝の光が薄白く射して来た。戸の透間《すきま》も明るく成った。一番早く眼を覚《さま》すものは子供で、まだ母親が知らずに眠っている間に、最早《もう》床の中から這出《はいだ》した。
子供は寝衣のままで母の枕頭《まくらもと》に遊んでいた。お雪は半分眠りな
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