、近所の娘達は洋燈《ランプ》の周囲《まわり》へ集った。下婢も台所を片付けて来て、手習の仲間入をさして貰った。ともかくもこの娘は尋常科だけ卒業したと言って、その前に雇った下女《おんな》のように、仮名の「か」の字を右の点から書き始めたり、「す」の字を結《むすび》だけ書き足すようなことはしなかった。
 しかし、この下婢《おんな》は性来|読書《よみかき》が嫌《きら》いと見えて、どんなに他の娘達が優美な文字を書習おうとして骨折っていても、それを羨《うらや》ましいとも思わなかった。お雪が起きて来て、ヨモヤマの話を始める頃には、下婢も黙って引込んでいない。無智な彼女はまたそれを得意にして、他の娘達よりも喋舌《しゃべ》った。
 お房を背負《おぶ》って町へ遊びに行った時、ある人がこんなことを言ったと言って、それを下婢が話し出した。
「教師の赤にしては忌々《いめいめ》しいほどミットモねえなあ――赤もフクレてるし、子守もフクレてるし、よく似合ってらあ」
 お雪も他の娘も笑わずにいられなかった。
「明日はこちらの叔父さんも御帰りに成りやしょう」
 と娘の一人が言った。お雪はこの娘達を相手にして、旅にある夫の噂《うわさ》をした。
 東京から三吉は種々な話を持って帰って来た。旅に出て帰って来る時ほど、彼も家を思い妻子を思うことはなかった。
「房ちゃん、御土産《おみや》が有るぜ」
 と三吉は旅の鞄《かばん》をそこへ取出した。
「父さんが御土産を下さるッて。何でしょうね」とお雪は子供に言って聞かせて、鞄の紐《ひも》を解《と》きかけた。「まあ、この鞄の重いこと。父さんの荷物は何時《いつ》でも書籍《ほん》ばかりだ」
 下婢《おんな》は茶を運んで来た。三吉は乾いた咽喉《のど》を霑《うるお》して、東京にある小泉の家の変化を語り始めた。兄の実が計画していた事業は驚くべき失敗に終ったこと、更に多くの負債を残したこと、銀行の取引が停止されたこと、これに連関して大将の家まで破産の悲運に陥りかけたこと、それから実の家ではある町中《まちなか》の路地のような処へ立退《たちの》いたことなどを話した。
「姉さんの姉さんで、ホラ、お杉さんという人が有ったろう。あの人も兄貴の家で亡くなった」と三吉は附添《つけた》した。
「宗さんはどうなさいました」とお雪が聞いた。
「宗さんか。あの人は世話してくれるところが有って、そっちの方へ
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