この二人の暗いところで流す涙を、三吉は黙って、遅くまで聞いた。
 頑固《かたくな》な三吉が家を解散すると言出すまでには、離縁の手続、妻を引渡す方法、媒妁人《なこうど》に言って聞かせる理由、お雪の荷物の取片付、それから家を壊した後の生活のことまでも想像してみたので、一度それを口にしたら、容易に譲ることの出来ないという彼の心も、いくらか和《やわら》げられたような日が来た。「君の志は有難い――まあ、僕もよく考えてみよう」こう三吉は直樹に言って、それから復た学校の方へ出掛けたが、帰って来てみると、曾根からの葉書が舞込んでいた。彼女も避暑地を発《た》つ、奥様へ宜敷、房子様へも宜敷、と認《したた》めてあった。三吉から出した手紙は東京へ宛てたので、未だ曾根は知る筈《はず》がない。そんな手紙が待つとは知らずに、彼女は帰京を急ぐのであった。
 到頭、三吉も譲歩した。家の解散も見合せることにしたと言出した。それを聞いて、お雪はホッと息を吐《つ》いた。直樹も漸《ようや》く安心したという顔付で、三吉が自分の意見を容《い》れたことを喜んだ。
「姉さん、浅間の話でもしましょう」
 と直樹は勇ましそうに笑ながら言った。その時に成って、三吉も登山の話をする気に成った。「一度行かない馬鹿、二度行く馬鹿」と土地の人のよく言うことなどを持出した。そして、世帯を持つからその日までのことを考えてみて、今更のように家の内を歩いてみた。
 直樹の出発はそれから間もなくで有った。この青年が中学の制服を着けて、例の浅間土産を手に提げて、名残《なごり》惜しそうに別れを告げて行く朝は、三吉も学校通いの風呂敷包を小脇《こわき》に擁《かか》えながら、一緒に家を出た。
「直樹さん。左様なら」
 とお雪は子供を抱いて、門口のところまで出て見送った。
 停車場で直樹に別れた三吉は、直ぐその足で軌路《レール》の側《わき》を通って、学校へ廻った。日課を終った後、三吉は家の方へ帰ろうとして、復た鉄道の踏切を越した。その時は城門の前を横に切れて、線路番人の番小屋のある桑畠のところへ出た。番人は緑色の旗を示しながら立っていた。暫時《しばらく》三吉も佇立《たたず》んで眺めた。轟然《ごうぜん》とした地響と一緒に、午後の上り汽車は三吉の前を通過ぎた。
「直樹さんも行って了った。曾根さんも行って了った」
 こう三吉は思いやった。
 ぼっぼっと汽車
前へ 次へ
全147ページ中88ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング