、その手紙のことに就いては、「そんなことを為《な》さらないたッても可いでしょうに……」と言ってみた。
その時、お雪は不思議そうに夫の顔を熟視《みまも》って、「誰も暇が貰いたくて、下さいと言うものは有りゃしません」と眼で言わせていた。復た彼女は台所の方へ行って働いた。
湯から帰って来た直樹は、縁側に出て、奥の庭を眺めた。庭の片隅《かたすみ》には、浅間から採って来た植物が大事そうに置いてあった。それを直樹は登山の記念として、東京への好い土産だと思っている。
この温和《すなお》な青年の顔を眺めると、三吉は思うことを言いかねて、何度かそれを切出そうとして、反《かえ》って自分の無法な思想《かんがえ》を笑われるような気がした。
「直樹さん、すこし僕も感じたことが有って、吾家《うち》は解散して了おうかと思います」と三吉は話の序《ついで》に言出した。
直樹は答えなかった。そして、深い溜息《ためいき》を吐いた。常識と同情とに富んだこの青年の柔嫩《やわらか》な眼は自然《おのず》と涙を湛《たた》えた。
「君はどう思うか知らんが」と三吉は言淀《いいよど》んで、「どういうものか家がウマくいかない……僕の考えでは、お雪は生家《さと》へ帰した方が可いかと思うんです」
「しかし、兄さん」と直樹は涙ぐんだ眼をしばたたいて、「それでは姉さんが可哀想です。もし、そんなことにでも成れば、一番可哀想なのは房ちゃんじゃ有りませんか」
「房《ふう》は可哀想サ」と三吉も言った。
長いこと二人は悄然《しょんぼり》として、言葉もかわさずに庭を眺めていた。
お雪は食事の用意が出来たことを告げに来た。それを聞いて、直樹は起《た》ちがけに、三吉に向って、
「ああ――私のように弱い者は、今のような御話を聞くと、最早|何事《なんに》も手に付ません。私は実に涙もろくて困ります――」
「まあ、行って飯でもやりましょう」と三吉も立上った。
「兄さん、兄さん、真実《ほんとう》に考え直してみて下さい」
こう言って、直樹は三吉の後を追った。
直樹は三吉夫婦と一緒に食卓に対《むか》っても、絶間《とめど》がなく涙が流れるという風であった。その晩は三人とも早く臥床《ねどこ》に就いたが、互におちおち眠られなかった。直樹は三吉と枕を並べてしくしくやりだす。お雪もその同情《おもいやり》に誘われて、子供に添乳《そえぢ》をしながら泣いた。
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