、蚊帳の内に寝かしてあった子供が泣出した。三吉は子供の傍の方で妻の歔泣《なきじゃくり》の音を聞くまでは安心しなかった。
浅間登山の一行は翌日の午前に成って帰って来た。直樹は好きな高山植物などを入口の庭に置いて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解いた。
「兄さんにチョッキを借りて行って、好い事をしました――寒くて震えましたよ」
こう直樹は三吉の顔を眺めて言った。山登りをした制服も濡《ぬ》れ萎れて見えた。この中学生は払暁《あけがた》に噴火口を見て、疲れた足を引摺《ひきず》りながら降りて来た。
直樹を休ませて置いて、三吉は何処《どこ》へという目的《めあて》もなく屋外《そと》へ歩きに行った。お雪の言ったことに対しても、何とか彼は答えなければ成らなかった。
午後に成って、三吉はスタスタ歩いて帰って来た。彼は倚凭《よりかか》って眺め入っていた田圃《たんぼ》の側《わき》だの、藉《し》いていた草だの、それから岡を過《よぎ》る旅人の群などを胸に浮べながら帰って来た。家へ戻ってみると、直樹は疲労《つかれ》を忘れる為に湯に行った留守で、お雪は又、子供を背負《おぶ》いながら働いていた。彼女は、「お暇を頂かせて下さい」と言出したに似合わず、それ程避けたい生活を送っている人とも見えなかった。三吉は自分の部屋へ行った。机の上に紙を展《ひろ》げた。
曾根――旅舎《やどや》の二階の壁のところに立って、花束を嗅いで見せた曾根の蒼《あお》ざめた頬は、未だ三吉の眼にあった。「吾儕《われわれ》は友達ではないか――どこまでも友達ではないか――互に多くの物に失望して来た仲間同志ではないか」この思想《かんがえ》は、三吉に取って、見失うことの出来ないものであった。
ここから三吉は曾根へ宛てて最後の別離《わかれ》の手紙を書いた。「――あるいは、これを好しとみ給うの日もあるべきかと存じ候」と書いた。
この長く御無沙汰するという手紙を、三吉はお雪を呼んで見せた。それから、彼はすこし改まったような、決心の籠《こも》った調子で、こう言出した。
「お断り申して置きますが、僕の家は解散して了いますから」
「ええ……どうでも貴方の御好きなように……私は生家《うち》へは帰りませんから」
とお雪は恨めしそうに答えた。
何故夫が曾根への手紙を見せて、同時に家を解散すると言出したかは、彼女によく汲取《くみと》れなかった。で
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