は共同の井戸のある方へ廻道して、日頃懇意な家の軒先に立った。別に用事も無いのに、しばらくそこで近所の人と立話をした。その日の空模様では浅間登山の連中もさぞ困るであろうなどと話し合った。ちらちら燈火《あかり》の点く頃に、三吉はブラリと自分の家へ帰った。
こんな風に、断《ことわり》なしで外出した例《ためし》は三吉に無いことであった。直樹は山の上で一夜を明す積りで出掛けたので、無論夕飯には帰らず、夫婦ぎりで互に黙ったまま食卓に対《むか》って食った。妻の気を悪くした顔付を見ると、三吉は話して差支《さしつかえ》の無いことまで話せなかった。
夕飯の後、お雪は尋ねた。
「曾根さんは未だ居《い》らっしゃいましたか」
この問には、三吉は酷《ひど》く狼狽《ろうばい》したという様子をして、咽喉《のど》へ干乾《ひから》び付いたような声を出して、
「私が知るものかね、そんなことを」
と思わず知らずトボケ顔に答えた。三吉はウソを吐《つ》かずにはいられなかった。そのウソだということを自分で聞いても隠されないような気がした。
その晩、夫婦の取換した言葉は唯《たった》これぎりであった。物を言わないは言うよりか、どれ程苦痛であるか知れなかった。直樹は居ず、三吉は独りで奥の蚊帳の内に横に成りながら、自分で自分の為《す》ることを考えてみた。気味の悪い蚊帳は髪に触って、碌《ろく》に眠られもしなかった。
十二時過ぎた頃、お雪は寝衣のままで、別の蚊帳の内に起直って、
「御休みですか」
と声を掛ける。三吉の方では返事もせずに、沈まり返っていた。お雪の啜泣《すすりなき》の声が聞えた。
「貴方、御休みですか」
と復た呼ぶので、三吉は眠いところを起されたかのように、
「何か用が有るかい」
「何卒《どうぞ》、私に御暇を頂かせて下さい」
お雪は寝床の上に倒れて、声を放って哭《な》いた。
「明日にしてくれ……そんなことは明日にしてくれ……」
こう三吉はさも草臥《くたぶ》れているらしく答えて、それぎり黙って了った。身動きもせずにいると、自分で自分の呼吸を聞くことが出来る。彼は寝床の上に震えながら、熟《じっ》と寝た振をしていた。そして耳を澄ました。お雪は泣きながら蚊帳の外へ出て、そこいらを歩く音をさせた。畳がミシリミシリ言う。箪笥《たんす》が鳴る。三吉は最早疑心に捕えられて了って、その物音を恐れた。そのうちに
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