未だ彼は曾根の病床に附いていて、看護を怠らないような気がしていた……ふと眼が覚めた。気がついてみると、三吉は自分の細君の側に居た。
このお房の発熱は一晩若い親達を驚かしたばかりで、彼女は直に壮健《じょうぶ》そうな、好く笑う子供に復《かえ》った。
朝晩は羽織を欲しいと思うように成ったのも、間もなくであった。暑中休暇を送りに来た人達もそろそろ帰仕度を始《はじめ》た。九月に入って、お福は東京の学校へ向けて発った。
直樹が別れて行く日も近づいた。浅間登山の連《つれ》があって、この中学生も一行の中に加わって出掛けた。丁度三吉は午前だけ学校のある日で、課業を済まして門を出ると、曾根の宿を訪ねてみたく成った。折角《せっかく》知人が同じ山の上に来ている。この人の帰京も近づいたろう。病気はどうか。こう思った。彼の足は学校から直《じか》に停車場の方へ向いた。
上りの汽車が来た。
午後の一時過には、三吉は汽車の窓から浅間の方を眺めて、直樹のことを想像しながら行く人であった。濃い灰色の雲は山の麓《ふもと》の方まで垂下って来ていた。
高原の上はヒドい霧であった。殆《ほと》んど雨のような霧であった。停車場《ステーション》から曾根の宿まで、道は可成《かなり》有る。古い駅路に残った旅舎《やどや》へ着いた時は、三吉が学校通いの夏服も酷く濡《ぬ》れた。
曾根が借りている部屋は、奥の方にある二階の一室で、そこには女ばかり三四人集っていた。孀暮《やもめぐら》しをしつけた人達は、田舎の旅舎へ来ても、淋しい男気《おとこけ》のない様子に見えた。いずれも煙草一つ服《の》まないような婦人の連で、例の曾根の親戚にあたるという人は見えなかったが、肥った女学生は居た。煙草好な三吉はヤリキレなくて、巻煙草を取出しながら独りで燻《ふか》し始めた。
「あれ、煙草盆も進《あ》げなかった」
と曾根はサッパリした調子で言って、客の為に宿から取寄せて出した。女学生はかわるがわる茶を入れたり、菓物《くだもの》を階下《した》から持運んだりした。歩いて来た故《せい》か、三吉ばかりは額から汗が出る。
曾根はつつましそうに、
「まあ、そんなに御暑いんですか。私は又、御寒いと思っていますのに」
こう言いながら、白い単衣《ひとえ》の襟を掻合《かきあわ》せた。彼女は顔色も蒼《あお》ざめていた。
何時の間にか連の人達は出て行っ
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