音だの、女の笑い声だのが風に送られて聞えて来る。瓦斯《ガス》の燈《あかり》はションボリとした柳の樹を照している。一歩《ひとあし》三吉が屋外《そと》へ出てみると、暗い空には銀河が煙の様に白かった。
「お雪――」
 と三吉が呼んだ。お雪は白い寝衣《ねまき》のままで、冷々とした夜気に打たれながら、彼方是方《あちこち》と歩いていたが、夫の声を聞きつけて引返して来た。
「オイ、風邪を引くといかんぜ」
 と三吉は妻を家の内へ呼入れて、表の戸を閉めた。


 急に、子供は身体が具合が悪かった。三吉の学校では暑中休暇も短いので、復た彼は弁当を提《さ》げて通う人であったが、帰って来てみると、家のものが皆なでお房の機嫌《きげん》を取っていた。お房は母親から離れずに泣き続けた。
「まあ、どうしたんだろう、この児は」とお雪は持余《もてあま》している。
「智慧熱《ちえねつ》という奴かも知れんよ」と三吉も言ってみた。「橋本の薬をすこし服《の》ませてみるが可い」
 夫婦は他の事を忘れて、一緒にお房のことを心配した。子供の泣声ほど直接《じか》に三吉の頭脳《あたま》へ響けて、苦痛を与えるものは無かった。あまりお房が泣止まないので、三吉は抱取って、庭の方へ行って見せるやら、でんでん太皷だの笛だのを取出して見せるやら、種々にして賺《すか》したが、どうしてもお房の気に入らなかった。
 お房の発熱は、大人の病気と違って、さまざまなことを夫婦に考えさせた。その夜は二人とも、熱臭い子供の枕許に集って、一晩中寝ずにも看護をしようとした。やがてお房は熟睡した。熱もそうタイしたことでは無いらしかった。三吉はお房の寝顔を眺めていたが、そのうちに疲労《つかれ》が出て、眠くなった。
 何時の間にか三吉は時と場所の区別も無いような世界の中に居た。そこには、唯恐しさがあった。無智な子供のような恐しさがあった……見ると病室だ。出たり入ったりしているのは医者らしい人達だ。寝台《ねだい》の上に横たわっている婦人は曾根だ。曾根は三吉に蒼《あお》ざめた手を出して見せて、自分の病気はここに在《あ》ると言う。人差指には小さい穴が二つ開いている。痛そうに血が浸染《にじ》んでいる。医者が来て、その穴へU字形の針金を填《は》めると、そんな酷《ひど》いことをしてどうすると叫びながら、病人は子供のように泣いた……
 三吉はすこし正気に復《かえ》った。
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