なかった。
「あんまり貴方も考え過ぎるんでしょう」
 とお雪は冷かに微笑《ほほえ》んで、「ちと曾根さんの方へでも遊びに行ってらしたらどうです」
「余計な御世話だ」と三吉は力を入れて言った。「お前は直に、曾根さん、曾根さんだ。それがどうした。お前のような狭い量見で社会《よのなか》の人と交際が出来るものか」こう彼は言おうとしたが、それを口には出さなかった。
「だって、こうして引籠《ひっこ》んでばかりいらっしゃらないで、御出掛に成ったら可いでしょうに……」
「行こうと、行くまいと、俺の勝手じゃないか」
 土塀の外の方では、近所の子供が集って李を落す音がした。
「房ちゃん」とお雪は子供を抱〆《だきしめ》るようにして、「父さんに嫌《きら》われたから、彼方《あっち》へ行きましょう」
 力なげにお雪は夫の傍を離れた。三吉は、「妙なことを言うナア」と口の中で言ってみて、復た考え沈んだ。
 暮れてから、三吉と直樹とは奥の部屋に洋燈《ランプ》を囲んで、一緒に読んだり話したりした。
 急にお雪は嘔気《はきけ》を覚えた。縁側の方へ行って吐いた。
「姉さん、どうなすったんですか」
 と直樹はお雪の側へ寄って、背中を撫《な》でてやる。
「ナニ、何でもないんです」とお雪は暫時《しばらく》動かずにいた後で言った。「難有《ありがと》う――直樹さん、もう沢山です」
 この嘔吐の音は直樹を驚かした。三吉は何か思い当ることが有るかして、すこし眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。流許《ながしもと》の方から塩水を造って持って来て、それを妻に宛行《あてが》った。
 その晩は、お雪はお福と一緒に蚊帳《かや》を釣って、平常《いつも》より早くその内へ入った。蚊が居て煩《うるさ》いと言いながら、一度横に成った姉妹《きょうだい》は蝋燭《ろうそく》を点《とも》して、蚊帳の内を尋ね廻った。緑色に光る麻蚊帳を外から眺めながら、三吉と直樹の二人は遅くまで読んだ。
 お雪は何時までも団扇《うちわ》の音をさせていたが、夫や直樹の休む頃に復た起きて、蚊帳の外で涼んだ。三吉も寝る仕度をして、子供の枕許《まくらもと》を覗《のぞ》くと、お雪が見えない。
「何しているんだろうナア」
 こう独語《ひとりごと》のように言って、三吉は探してみた。表の入口の戸が明いていた。隣近所でも最早《もう》寝たらしい。向の料理屋の二階だけは未だ賑《にぎや》かで、三味線の
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