た。窓の障子の明いたところからは、冷々とした霧が部屋の内まで入って来た。曾根の話は、三吉の家を訪ねた時のことから、草木の茂った城跡の感じの深かったことや、千曲川の眺望《ながめ》の悲しく思われたことなどに移った。三吉は曾根の身体のことを尋ねてみた。
「別に変りましたことも御座いません」と曾根は悩ましそうに、「山を下りましたら、海辺《かいへん》へ参ってみようかと思います」
こう言って、それから海と山の比較などを始める。「たしか、小泉さんは山が御好なんで御座いましたねえ」とも言った。
三吉はすこし煩《うる》さそうに、
「医者は何と言うんですか、貴方《あなた》の御病気を」
「医者? 医者の言うことなぞがどうして宛《あて》に成りましょう。女の病気とさえ言えば、直ぐ歇私的里《ヒステリイ》……」
曾根の癖として、何時《いつ》でも自身の解剖に落ちて行く。彼女はそこまで話を持って行かなければ承知しなかった。
「私の友達で一緒に音楽を始めました人も、そう申すんで御座いますよ――私ほど気心の解らない者は無い、こうして十年も交際《つきあ》っているのにッて」曾根は自分で自分を嘲《あざけ》るように言った。
三吉も冷やかに、「貴方のは――誰もこう同情を寄せることの出来ないような人なんでしょう」
「では、私を御知りなさらないんだ」と言って、曾根は寂しそうに笑って、「昨晩は悲しい夢を見ましたんで御座いますよ……」
三吉は曾根のションボリとした様子を眺めた。
「私は死んだ夢を見ました……」
こう言って、曾根は震えた。暫時《しばらく》二人は無言でいた。
「ああ……私は東京の方へ帰るという気分に成りません。東京へ帰るのは、真実《ほんと》に厭《いや》で……」曾根は嘆息するように言出した。
「してみると、貴方も孤独な人ですかネ」と言って、復た三吉は巻煙草を燻した。窓の外は陰気な霧に包まれたり、時とすると薄日が幽《かす》かに射したりした。
旅情を慰める為に、曾根が東京から持って来た書籍《ほん》は机の上に置いてあった。それを曾根は取出した。旅に来ては客をもてなす物も無かったのである。その曾根が東京の友達から借りて来たと言って、出して見せたような書籍は、以前三吉も読み耽《ふけ》ったもので、そういう書籍の中にあるような思想に長いこと彼も生活していた。この山の上へ移ってから、次第に彼の心は曾根の愛読す
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