意をして置いて、一緒に食おうともしなかった。裏の流の水草に寄る螢《ほたる》は、桑畠の間を通って、南向の部屋に近い垣根の外まで迷って来た。お雪は濡縁《ぬれえん》のところに立って、何の目的《めあて》もなく空を眺めた。隣のおばさんは鎌《かま》を腰に差して畠《はたけ》の方から帰って来る。桑を背負った男もその後から会釈して通る……


「一筆《ひとふで》しめし上げ※[#「※」は「まいらせそろ」の略記号、115−9]《まいらせそろ》。さてとや暑さきびしく候《そうろう》ところ、皆様には奈何《いかが》御暮しなされ候や。私よりも一向音信いたさず候えども、御許《おんもと》よりも御便り無之《これなく》候故、日々御案じ申上げ候。御蔭さまにて当方は一同無事に日を送り居り候。御安心|被下《くだされ》たく候。私こと、毎日々々そこここと手伝見舞にまいり、いそがしく、それに仕事の方も間に合せたくと存じ、それ着物の浸抜《しみぬき》、それ洗張《あらいはり》と、騒ぎにばかり日を暮し、未だ父上の道中着物ほどきもせずに居るような仕末に御座候。
 ――私よりの御無沙汰《ごぶさた》、右の次第にて、まことに申訳なく候えども、あまり御許《おんもと》よりも手紙なきゆえ、定めし子供を控え手もすくなく其日々々のことに追われ、暇《いとま》なき身《からだ》とは御察し申しながら、父上|着《ちゃく》なされ候てより未だ一通の手紙もまいらず、御許のことのみ気に懸り、心許なくぞんじ居り候。奈何《いかが》いたし候や。あるいは御許の心変りしやとも考え、斯《か》くては定めし夫に対しても礼義崩れ、我儘《わがまま》なることもなきやと、日々心痛いたし居り候。御許ばかりは左様の事なきかとは思い居り候えども、人間の我儘はいずれにもあることなれば、実に安心の成らぬものに御座候。それにしても、御許にかぎりて、左様なことは有るまじくと存じ居り候。何につけ善悪《よしあし》とも御便り下されたく候。
 ――お福も最早《もはや》学校も間近に相成り候。長々の間、定めて御心を懸け下され候ことと、ありがたく、父上ともども喜び居り候。
 ――就《つ》いては、先日より何か送りたくと存じながら、彼《あれ》や是《これ》やにひかされて今日まで延引いたし、誠に不本意に御座候。只今小包便にて、乾塩引《かんしおびき》少々、鰹節《かつおぶし》五本、豆せんべい、松風いずれも少々、前掛一枚、右
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