この児の頬《ほっぺた》は俺の母親《おっか》さんに彷彿《そっくり》だ」などと言っているかと思えば、突然《だしぬけ》にお雪に向ってこんなことを言出す。
「房ちゃんは真実《ほんと》に俺の児かねえ」
「馬鹿な……自分の児でなくて、そんなら誰の児です」
こういう馬鹿らしい問答ほど、お雪の気を傷《いた》めることは無かった。
「一体、お前はどういう積りで俺の家へ嫁《かたづ》いて来た……」
「どういう積りなんて、そんな無理なことを……」
「いっそ俺は旅にでも出て了おうかしらん――どうかすると、そういう気が起って来て仕方ない」
「まあ、どうしてそんな気に成るんでしょうねえ」
お雪はもう呆《あき》れて了う。「他所《よそ》から帰って来ると、自分の家ほど好い処は無いなんて、よく言うじゃ有りませんか――真実《ほんと》に、貴方は気が変り易《やす》いんですねえ」こうも並べてみる。お雪には、夫が戯れて言うとはどうしても思われなかった。それは、唯考えてみたばかりでも、彼女の心をムシャクシャさせた。
熱い日が射《あた》って来た。三吉の家では、前の年と同じように、鴨居《かもい》から鴨居へ細引を渡した。お雪が生家《さと》から持って来たもので、この田舎では着る時の無いような着物が虫干する為に掛けられた。結婚の時に用いた夫の羽織袴《はおりはかま》、それから彼女の身に纏《まと》うた長襦袢《ながじゅばん》の類まで、吹通る風の為に静かに動いた。小泉の兄の方から送った結納《ゆいのう》の印の帯なぞは、未だ一度も締たことが無くて、そっくり新しいまま眼前《めのまえ》に垂下った。
「ああ、ああ、着物も何も要《い》らなくなっちゃった」
と言って、お雪は深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
子供は名倉の母から貰ったネルの単衣《ひとえ》を着せて、そこに寐《ね》かしてあった。
「それ、うまうま」
とお雪は煩《うる》さそうに横に成って、添乳《そえぢ》をしながら復た自分の着物を眺めた。
午睡《ひるね》から覚《さ》めた時の彼女は顔の半面と腰骨のあたりを射し入る光線に照らされていた。彼女はすこし逆上《のぼ》せたような眼付をして身を起した。額も光った。こういう癇癪《かんしゃく》の起きた時は、平常《ふだん》より余計に立働くのがお雪の癖で、虫干した物を片付けるやら、黙って拭掃除《ふきそうじ》をするやらした。彼女は夫や客の為に食事の用
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