「お仙、兄さんにも、御茶が入りましたからッて、そう言っていらッしゃい」
 こうお種は娘に言付けて、表座敷の方に居る正太を呼びにやった。
 正太と三吉とは、年齢《とし》が三つしか違わない。背は正太の方が隆《たか》い。そこへ来て三吉の傍に坐ると、叔父|甥《おい》というよりか兄弟のように見える。
 正太が入って来ると同時に、急に達雄は厳格に成った。そして、黙って了《しま》った。
 正太もあまり口数を利かないで、何となく不満な、焦々《いらいら》した、とはいえ若々しい眼付をしながら、周囲《あたり》を眺め廻した。
 古い床の間の壁には、先祖の書いた物が幅広な軸に成って掛っている。それは竹翁《ちくおう》と言って、橋本の薬を創《はじ》めた先祖で、毎年の忌日には必ず好物の栗飯を供え祭るほど大切な人に思われている。その竹翁の精神が、何時《いつ》までも書いた筆に遺《のこ》って、こうして子孫に臨んでいるかのようにも見える。
 この室内の空気は若い正太に何の興味をも起させなかった。彼の眼には、すべてが窮屈で、陰気で、物憂《ものう》いほど単調であった。彼は親の側に静止《じっと》していられないという風で、母が注《つ》いで出した茶を飲んで、やがてまたぷいと部屋を出て行って了った。
 達雄は嘆息して、
「三吉さん、お前さんの着いた日から私は聞いてみたい聞いてみたいと思って、まだ言わずにいることが有るんですが……お前さんが持っているその時計ですね……」
「これですか」と三吉は兵児帯《へこおび》の間から銀側時計を取出して、それを大きな卓《つくえ》の上に置いた。
「極く古い時計でサ、裏にこんな彫のしてある――」
「実はその時計のことで……」と達雄は言|淀《よど》んで、「正太を東京へ修業に出しました時に、私が特に注意して、金時計を一つくれてやったんです――まあ、そういう物でも持たしてやれば、普通の書生とも見られまいかと思いまして――ネ。ところが一夏、彼《あれ》が帰って来た時に、他の時計をサゲてる。金時計はどうしたと私が聞きましたら、友達から是非貸してくれと言われて置いて来ました、そのかわり友達のを持って来ました、こう言うじゃありませんか。どうでしょう、その友達の時計が今度来たお前さんの帯の間に挾《はさ》まってる……」
 三吉は笑出した。「一体これは宗《そう》さんの時計です。近頃私が宗さんから貰ったん
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