た。その年の初夏ほど、三吉も寂しい旅情を経験したことは無かった。奥の庭には古い林檎の樹があって、軒に近い枝からは可憐《かれん》の花が垂下った。蜜蜂《みつばち》も来て楽しい羽の音をさせた。すべての物の象《かたち》は、始めて家を持った当時の光景《ありさま》に復《かえ》って来た。
「俺の家は旅舎《やどや》だ――お前は旅舎の内儀《おかみ》さんだ」
「では、貴方は何ですか」
「俺か。俺はお前に食物《くいもの》をこしらえて貰ったり、着物を洗濯して貰ったりする旅の客サ」
「そんなことを言われると心細い」
「しかし、こうして三度々々御飯を頂いてるかと思うと、難有《ありがた》いような気もするネ」
 こんな言葉を夫婦は交換《とりかわ》した。
 ヒョイヒョイヒョイヒョイと夕方から鳴出す蛙の声は余計に旅情をそそるように聞える。それを聞くと、三吉は堪え難いような目付をして、家の内を歩き廻った。
 新婚の当時のことは未だ三吉の眼にあった。東京を発って自分の家の方へ向おうとする旅の途中――岡――躑躅《つつじ》――日の光の色――何もかも、これから新しい生涯に入ろうとするその希望で輝かないものは無かった。洋燈《ランプ》の影で書籍《ほん》を読みながら聞いた未だ娘のような妻の呼吸――それも三吉の耳にあった。彼は女というものを知りたいと思うことが深かったかわりに、失望することも大きかったのである。
 どうかすると、三吉は往時《むかし》の漂泊時代の心に突然帰ることが有った。お雪が勝手をする間、子供を預けられて、それを抱きながら家の内を歩いている時、急に子も置き、妻も置いて、自分の家を出て了おうかしらん、こんな風に胸を突いて湧《わ》き上って来ることも有った。
「好い児だ――好い児だ――ねんねしな――」
 眠たい子守歌をお房に歌ってやりながら三吉は自分の声に耳を澄ました。お雪はよく働いた。


 裏の畠には、前の年に試みた野菜の外に茄子《なす》、黄瓜《きうり》などを作り、垣根には南瓜《かぼちゃ》の蔓《つる》を這《は》わせた。ある夕方、三吉が竹箒《たけぼうき》を持って、家の門口を掃除したり、草むしりをしたりしていると、そこへ来て風呂敷包を背負った旅姿の人が立った。
 橋本の大番頭、嘉助が行商の序《ついで》に訪ねて来たのであった。毎年の例で、遠く越後路から廻って来たという。この番頭の日に焼けた額や、薬を入れた籠《つ
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