ち候。思うに君は春秋に富まるるの身、生とても同じ。一旦の悲哀よりして互に終生を棄つるなく、他日手を執りて今日を追想し、胸襟《きょうきん》を披《ひら》いて相語るの折もあらば、これに過ぎたる幸はあらじと存じ候……」
この勉へ宛てた手紙を読んで了った時、三吉は何か事業《しごと》でも済ましたように、深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。お雪は畳の上に突伏《つっぷ》したまま、やや暫時《しばらく》の間は頭を揚げ得なかった。
「オイ、そんなことをしていたって仕様が無い。この手紙は皆なの寝てるうちに出して了おう」
と三吉は慰撫《なだ》めるように言って、そこに泣倒れたお雪を助け起した。郵便函《ポスト》は共同の掘井戸近くに在った。三吉は妻を連れて、その手紙を出しながら一緒にそこいらを歩いて来ようと思った。
お福や書生の眼を覚ませまいとして、夫婦は盗むように家の内を歩いた。表の戸を開けてみると、屋外《そと》は昼間のように明るかった。燐《りん》のような月の光は敷居の直ぐ側まで射して来ていた。
裏の流は隣の竹藪《たけやぶ》のところで一度石の間を落ちて、三吉の家の方へ来て復た落ちている。水草を越して流れるほど勢の増した小川の岸に腰を曲《かが》めて、三吉は寝恍《ねぼ》けた顔を洗った。そして、十一時頃に朝飯と昼飯とを一緒に済ました。彼は可恐《おそろ》しい夢から覚めたように、家の内を眺め廻した。
口では思うように言えないからと言って、お雪が手紙風に書いた物を夫の許へ持って来た頃は、書生も水泳《およぎ》に行って居なかった。お雪が三吉に見てくれというは、種々《いろいろ》止《や》むを得ない事情から心配を掛けて済まなかった、自分は最早どうでも可いというようなそんな量見で嫁いて来たものでは無い、自分は自分相応の希望を有《も》って親の家を離れて来た、という意味が認めてある。猶《なお》、勉へ宛てて最後の断りの手紙を書いたから、それだけは許してくれ、としてある。
「なにも、俺は断れと言ってあんな手紙を書いたんじゃない。お前なんかそう取るからダメだ」と三吉は言ってみた。「福ちゃんの旦那さんに成ろうという人じゃないか……行く行くは吾儕《われわれ》の弟じゃないか……」
お雪は答えなかった。
冷《すず》しい風の来るところを択んで、お福は昼寝の夢を貪《むさぼ》っていた。南向の部屋の柱に倚凭《よりかか》りなが
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