し候。此《この》手紙、決して悪《あ》しき心を持ちて申上ぐるには候わず。何卒々々心静かに御覧下されたく候……」
 お雪は鋭く夫の顔を眺めて、復た耳を澄ました。
「実は、君より妻へ宛《あ》てたる御書面、また妻より君へ宛てたる手紙、不図《ふと》したることより生の目に触れ、一方には君の御境遇をも審《つまびらか》にし、一方には……妻の心情をも酌取《くみと》りし次第に候……」
 お雪は耳の根元までも紅《あか》く成った。まだ世帯慣れない手で顔を掩《おお》うようにして、机に倚凭《よりかか》りながら聞いた。
「斯《か》く申す生こそは幾多の辛酸にも遭遇しいささか人の情《なさけ》を知り申し候……されば世にありふれたる卑しき行のように一概に君の涙を退くるものとのみ思召《おぼしめ》さば、そは未だ生を知らざるにて候……否……否……」
 どうかすると三吉の声は沈み震えて、お雪によく聞取れないことがあった。
「斯《か》く君の悲哀《かなしみ》を汲《く》み、お雪の心情をも察するに、添い遂げらるる縁《えにし》とも思われねば、一旦は結びたる夫婦の契《ちぎり》を解き、今|迄《まで》を悲しき夢とあきらめ、せめては是世《このよ》に君とお雪と及ばず乍ら自身|媒妁《ばいしゃく》の労を執って、改めて君に娶《めあわ》せんものと決心致し、昨夜、一昨夜、殆ど眠らずして其《その》方法を考え申候……ここに一つの困難というは、君も知り給う名倉の父の気質に候。彼是《かれこれ》を考うれば、生が苦心は水の泡《あわ》にして、反《かえ》って君の名を辱《はずかし》むる不幸の決果を来さんかとも危まれ候……」
 暫時《しばらく》、部屋の内は寂《しん》として、声が無かった。
「ああ君と、お雪と、生と――三人の関係を決して軽きこととも思われず候。世間幾多の青年の中には、君と同じ境遇に苦む人も多からん。新しき家庭を作りて始めて結婚の生涯を履《ふ》むものの中には、あるいは又生と同じ疑問に迷うものもあらん。斯《かか》ることを書き連ね、身の恥を忘れ、愚かしき悲嘆《なげき》を包むの暇《いとま》もなきは、ひとえに君とお雪とを救わんとの願に外ならず候。あわれむべきはお雪に候。君もし真にお雪を思うの厚き情《なさけ》もあらば、願わくは友として生に交らんことを許し給え……三人の新しき交際――これぞ生が君に書き送る願なれば。今後吾家庭の友として、喜んで君を迎えんと思い立
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