お雪も眺めた。
 名倉の店に勤めている人で、お雪が義理ある兄の親戚にあたる勉からも、お雪へ宛《あ》てて祝の手紙が来た。これは又、若い商人らしい達者な筆で書いてあった。
 こんな風にして、三吉夫婦の若い生涯は混《まじ》り始めた。やがて裏の畠に播いた莢豌豆《さやえんどう》も貝割葉《かいわれば》を持上げ、馬鈴薯も芽を出す頃は、いくらかずつ新しい家の形を成して行った。お雪は住居の近くに、二人の小母さんの助言者をも得た。一人は壁一重隔てて隣家《となり》に住む細君で、この小母さんは病身の夫と多勢の子供とを控えていた。小母さん達はかわるがわる来て、時の総菜が出来たと言ってはくれたり、世帯持の経験を話して聞かせたりするように成った。

        五

 東京の学校が暑中休暇に成る頃には、お雪が妹のお福も三吉の家へやって来た。お福は、お雪の直ぐ下にあたる妹で、多勢の姉妹《きょうだい》を離れて、一人東京の学校の寄宿舎に入れられている。名倉の母の許を得て、一夏を姉の許《ところ》に送ろうとして来たのである。
 三吉が通っている学校は、私人の経営から町の事業に移りかけているような時で、夏休というものもお福の学校の半分しかなかった。お福の学校では二月の余も休んだ。裏の畠《はたけ》の野菜も勢よく延びて、馬鈴薯《じゃがいも》の花なぞが盛んに白く咲く頃には、漸《ようや》く三吉も暇のある身《からだ》に成った。
 三吉は新《あらた》に妹が一人|増《ふ》えたことをめずらしく思った。読書の余暇には、彼も家のものの相手に成って、この妹を款待《もてな》そうとした。お雪は写真の箱を持出した。
 名倉の大きな家族の面影《おもかげ》はこの箱の中に納められてあった。風通しの好い南向の部屋で、お雪姉妹は集って眺《なが》めた。養子して名倉の家を続《つ》いだ一番|年長《うえ》の姉、※[#「※」は「○の中にナ」、82−15]という店を持って分れて出た次の姉、こういう人達の写真も出て来る度《たび》に、お雪は妹と生家《さと》の噂《うわさ》をした。お福の下にまだ妹が二人あった。その写真も出て来た。姉達の子供を一緒に撮《と》ったのもあった。この写真の中には、お雪が乳母と並んで撮った極く幼い時から、娘時代に肥った絶頂かと思われる頃まで、その時その時の変遷《うつりかわり》を見せるようなものがあった。中には、東京の学校に居る頃、友達と
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