お》い茂った学校の表門の前へ出ることもある。お雪は夫の話によって、自分等の住む家が大きな山の上の傾斜の中途にあることを知った。幾十里隔てて、橋本の姉と同じ国に来ているような気がしない、と夫は言ったが、お雪にはまだその方角さえも判然《はっきり》しなかった。
裏の畠には、学校の小使に習って、豆、馬鈴薯《じゃがいも》、その他作り易《やす》い野菜から種を播《ま》いた。葱苗《ねぎなえ》を売りに来る百姓があった。三吉の家では、それも買って植えた。
お雪が三吉の許《もと》へ嫁いて来るについては種々《いろいろ》な物が一緒に附纏《つきまと》って来た。「未来のWと思っていたが、君が嫁いて失望した……いずれその内に訪ねて行く……」こんなことを女名前にして書いて寄《よこ》す人も有った。お雪はそれを三吉に見せて、こういう手紙には迷惑すると言った。三吉は好奇心を以《もっ》て読でみた。放擲《うっちゃらか》して置いた。どうかするとお雪は不思議な沈黙の状態《ありさま》に陥ることも有った。何か家の遣方《やりかた》に就いて、夫から叱られるようなことでも有ると、お雪は二日も三日も沈んで了う。眼に一ぱい涙を溜《た》めていることも有る。こういう時には三吉の方から折れて出て、どうしても弱いものには敵《かな》わないという風で、種々に細君の機嫌《きげん》を取った。
「氷豆腐というものもナカナカ好いものだね……ウマい……ウマい‥…今日の菜《さい》は好く出来た……」
こう三吉の方で言うと、お雪も気を取直して、夫と一緒に楽しく食うという風であった。尤《もっと》もこの沈黙はそう長くは続かなかった。一度その状態《ありさま》を通り越すと、彼女は平素《いつも》のお雪に復《かえ》った。そして、晴々しい眼付をして、復た根気よく働いた。お雪は夫の境涯をさ程苦にしているでもなかった。
お雪の部屋には、生家《さと》から持って来た道具なども置かれた。大きな定紋の付いた唐皮《からかわ》の箱には、娘の時代を思わせるような琴の爪《つめ》、それから可愛らしい小さな男女《おとこおんな》の人形なども入れてあった。親族や知人からはそれぞれ品物やら手紙やらで祝って寄《よこ》した。三吉が妻の友達にと紹介した二人の婦人からも来た。
「曾根さんは曾根さんらしい細い字で書いて来たネ」と三吉が言て笑った。
「真実《ほんと》に皆さんは御上手なんですねえ」と
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