菜《かず》は、鳥の肉の殘りと、あやしげな茶碗蒸と、野菜だつた。茶に臭氣《にほひ》のあるのは水の故《せい》だらうと言出したものがあつたが、左樣言はれると飯も同じやうに臭つた。こゝの女中が持つて來た宿帳の中には吾儕が知つて居る畫家《ゑかき》の名もあつたので、雜談は復たそれから始まつた。晝の間寂しかつた溪流の音は騷然《さわが》しく變つて來た。寢る前に吾儕はもう一ぱい入浴《はいり》に行つた。

 朝早く湯が島を發つた。吾儕を待つて居た馬車は、修善寺から乘せて來たのと同じで、馬丁《べつたう》も知つた顏だつた。天城の山の上まで一人前五十錢づゝ。夜のうちに霰が降つたと見えて、乘つて行く道路《みち》は白かつた。
「A君。」と私は膝を突き合せて居る友達の顏を眺めた。「斯うして天城を越すやうなことは、一生のうちに左樣《さう》幾度も有るまいね。」
「さうさナ、精々もう一度も來るかナ。なにしろまあ能く見て置くんだね。」
 斯うA君が答へた。其日A君が興奮した精神《こゝろ》の状態《ありさま》にあることを私はその力のある話振で知つた。朝日が寒い山の陰へ射《あた》つて來た。A君は高い響けるやうな聲を出して笑つた。

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