馬丁は馬車から降りて、馬の轡を執りながら歩いた。山の上までは斯うして馬に附いて行くといふ。彼は自分の財産を護るやうに――ある時は一人の友達を頼みにするやうに、馬を大事にした。馬も彼の言ふことを聞いて、脚に力を入れ、吾儕を乘せた重い車を牽きながら、御料林の中の山道を進んで行つた。
 茅野《かやの》といふ山村の入口で吾儕は三人ばかりの荒くれた女に逢つた。「ホウ、半鐘がありますぜ。斯樣なところに旅舍《やどや》も有る――是《この》次に來る時は是非あの旅舍《やどや》で泊めて貰ふんだネ。」とA君は戲れるやうに言つた。この村の出はづれに枯々とした耕地があつて、向ふの方には屋根の低い小屋が見える。樵夫《きこり》らしい男が通る。吾儕の馬車はそれから一層深く山の中へ入つた。
 半道ばかりの間、吾儕は人に逢はなかつた。立木の儘枯れた大きな幹が行先の谷々に灰白く露出《あらは》れて居た。馬丁《べつたう》に聞くと、杉の爲に壓倒された樅の枯木だといふ。この可畏《おそろ》しげな樹木の墓地の中を、一人、吾儕の方へ歩いて來る者があつた。男だ、いや女だ、と吾儕は車の中で爭つた。近《ちかづ》いて見ると、樵夫の妻でゞもあるか
前へ 次へ
全27ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング