。何もかも吾儕の生活とは懸離れて居る。湯は温《ぬる》かつたが後はポカ/\した。晝飯《ひる》には鷄を一羽ツブして貰つた。肉は獸のやうに強《こは》かつた。骨は叩きやうが荒くて皆な齒を傷めた。しかし甘かつた。
「姉さん。」と私は山家者らしい女中に聞いて見た。「こゝは家《うち》の人だけでやつてるね……姉さんは矢張この家の人かね。」
「いゝえ、私はこゝの者ぢや御座いません。」と女中は答へた。
 この娘の出て行つた後で、A君が、「修善寺に比べると女中からして違ふネ。吾儕《われ/\》の前へ來るとビク/″\してる。」斯う考深い眼付をして言つて居た。
 日頃樫の樹に特別の興味を持つA君は誰よりも軒先に生ひ茂る青々とした葉の新しさを見つけた。この谷底の樫の樹を隔てゝ、どうかすると、雨でも降つて來たかと欺されるやうな氣のすることがあつた。よく聞けば矢張溪流の音だつた。この音から起る混交《いれまじ》つた感覺は別の世界の方へ吾儕を連れて行つた。吾儕は遠く家を離れたやうな氣がした。
「全く世間を忘れたね。」
 とK君は力を入れて言つた。
 K君と私はこの宿の繪葉書を取寄せて書いた。私はそれをA君にも勸めた。
「僕
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