次第に山深く進んで行つたことを感じた。ある村へさしかゝつた頃、吾儕は車の上から四十ばかりに成る旅窶れのした女に逢つた。其女は猿を負つて居た。馬車は驅せ過ぎた。
 湯が島へ着いた。やがて晝近かつた。温泉宿のあるところ迄行くと、そこで馬丁は馬を止めた。吾儕はこの馬車に乘つて天城山を越すか、それともこゝで一晩泊るか、未定だつた。山上の激寒を畏れて、皆なの説は湯が島泊りの方に傾いた。
 吾儕の案内された宿は谷底の樫の樹に隱れたやうな位置にあつた。其日は他に客もなくて、溪流に臨んだ二階の部屋を自由に擇ぶことが出來た。「夏は好いだらうね。斯樣《こん》なところへ一月ばかりも來て居たいね。」と互に言ひ合つた。天城の山麓だけあつて、寒いことも寒い。激しい山氣は部屋の内《なか》へ流れ込むので、障子を開放して置くことも出來ない位だつた。洋服で來たM君と私とは褞袍《どてら》に浴衣《ゆかた》を借りて着て、その上からもう一枚褞袍を重ねたが、まだ、それでも身體がゾク/\した。
 こゝへ來ると、最早《もう》全く知らない人の中だ。北伊豆の北伊豆らしいところは、雜踏した修善寺に見られなくて、この野趣の多い湯が島に見られる
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