、やがて後に隱れた。三月の節句前のことで、船は港々へ寄つて、榮螺を詰めた俵を積んだ。魚も積んだ。それを船員が總懸りで船の底へ投込む度に、吾儕の居る室の方まで響けた。A君は無理に寢て行つた。船の中では晝の辨當を賣つたが、誰も買ふものが無かつた。斯うして午後まで搖られた。
伊東へ着いた。其日もA君は別に船旅に醉つたやうな樣子は無かつた。
湯の香のする舊い朽ちかゝつたやうな町、左樣かと思ふと繪葉書を賣る店や、玉突場や、新しく普請をした建築物《たてもの》などの軒を並べた町――斯う混交《いれまじ》つて居るところへ來た。こゝは最早《もう》純粹な田舍ではなかつた。それだけ熱海や小田原の方へ近づいたやうな氣もした。
吾儕は行く先/\で何かしら賞めた――すくなくも土地の長處を見つけて、その日/\の旅の苦痛に耽りたいと思つた。修善寺の湯は熱過ぎたし、湯が島では温《ぬる》過ぎたし、湯が野も惡くはなかつたが、入り心地の好いのは是處だ。是は伊東の宿へ來て、町の往來へ向つた二階の角の部屋で、皆な一緒に茶を飮んだ時の評定だつた。
「こゝの湯で、下田の宿で、湯が島の溪流があつたら、申分なしだネ。」と私が言つて見
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