待つに長くかゝつた。この汽船の會計らしい人は自分の室の戸を開けて、小さな植木鉢などの飾つてある机の前で丁寧に髮を撫でつけ、鞄を抱いて、それから別の艀へ移つた。甲板の上には汚れた服を着た船員が集つて、船の中で買食でもする外に歡樂《たのしみ》も無いやうな、ツマラなさうな顏付をして、上陸する人達を可羨《うらやま》しげに眺めて居た。漸く艀が來た。吾儕も陸へ急いだ。
 下田の宿では夕飯の用意をして吾儕《われ/\》の歸りを待つて居た。其晩、吾儕は親類や友達へ宛てゝ紀念の繪葉書を書いた。天城を越したら送れと言つたY君を始め、信州のT君へは、K君と私と連名で書いた。旅の徒然《つれ/″\》に土地の按摩を頼んだ。温暖《あたたか》い雨の降る音がして來た。
 早く起きた。雨は夜のうちに止んで、濕つた家々の屋根から朝餐《あさげ》の煙の白く登るのが見えた。音一つしなかつた。眠るやうに靜かだ。
「想像と實際に來て見たとは、斯うも違ふかナア。」とK君は下田の朝を眺めながら言つた。「まあ、僕の知つた限りでは、酒田に近い――酒田よりもうすこし纏まつてるかナ。」
「そんなに淫靡な處だとも思へないぢやないか。」と私も眺めて、
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